90年代全米のヒップホップシーン、西海岸と東海岸の抗争では欠かせない重要人物 2パック。
1971年ニューヨーク生まれ。2パックは、75万枚以上のミリオンヒットを出し、世界中でベストセラーアーティストとして名を掲げた。ほとんどの楽曲は、ギャング達のゲットーでの苦難や、人種問題、社会問題、イーストコーストヒップホップ抗争中での他のラッパーたちとの闘争などについて歌っている。
2パックはTupac Amaru Shakur(トゥーパック・アマル・シャクール)という名で、Tupac Amaruとは16世紀インカ帝国に実在した皇帝の名前だという。『Shining Serpent(知恵と勇気を司る輝ける蛇)』とも表現され、彼の母親は、世界先住民の中の革命家の名前を彼に名付け、2パックの才能は世界に貢献するようにとの想いで名付けた。父親のBilly Garland(ビリー・ガーランド)とは大人になるまで音信不通の関係であり、黒人政治団体ブラック・パンサー党のメンバーであった母親Afeni Shakur(アフェニ・シャクール)は、彼を妊娠しているあいだ刑務所で生活をした(のちに無罪となる)。
タフな幼少時代の為引越しを繰り返し、ニューヨーク州のブルックリンやブロンクスで幼少期を過ごす。母親の影響で、黒人政治団体から教育を受けるが、それと同様に母親の薬物乱用による苦難などを見て育った。当時の2パックはニューヨーク・ハーレムを拠点とする劇団127th Street Ensembleのメンバーの一員として加入し、俳優としても活動を始めた。
MC New York、デジタル・アンダーグラウンドなど多彩なキャリア
10代の頃、2パックは、メリーランド州ボルティモアでアートスクールに通い、バレエや演技の授業を受けていた。ボルティモアでの生活から、ラップに目覚めMC New Yorkという名でMC・ラッパーとして活動を始め、1980年後半には、家族とともにカリフォルニア州に転居し、アンダーグラウンド・ヒップホップグループDigital Underground(デジタル・アンダーグラウンド)に加入し「Same Song」でデビューする。1991年にはソロアーティスト2パックとしてデビューアルバム『2Pacalypse Now』(2パカリプス・ナウ)をリリース。アルバムに含まれる「Brenda’s Got a Baby」(ブレンダズ・ゴット・ア・ベイビー)はビルボードチャート・ホット・ラップ・シングルとして3位を獲得。
「I Get Around」(アイ・ゲット・アラウンド)や「Keep Ya Head Up」(キープ・ヤ・ヘッダップ)を含んだ、セカンドアルバム『Strictly 4 My N. I. G. G. A. Z.』はプラチナムアルバムとなり、ミリオンセラーとなった。2パックは一躍スターとなり注目される。その頃、同様に俳優としてJuice(ジュース)にてデビューを果たす。1993年にはロマンス映画Poetic Justice(ポエティック・ジャスティス)にて、Janet Jackson(ジャネット・ジャクソン)と主演を果たし、またラッパーとしての2パックとは違った一面を表現し話題となる。その後、バスケットボールドラマAbove the Rimにもドラッグディーラー役で出演した。
東西のヒップホップ抗争の中心にいた2パック
彼のMC・俳優としての名が広がる中、ギャングの抗争、警官を挑発したり、ビッチに対してのヴァイオレンスなリリックスにより告訴される。また5発もの銃弾を被弾する事件にも巻き込まれた。この事件現場には、ディディとノトーリアスBIGが現場にいたため、東のヒップホップレーベルBad Boy Recordsの陰謀だと疑われた。この事件をきっかけに東西のヒップホップ界のギャングたちは対立。
1995年には、ファンに対するレイプ疑惑によって4年6ヶ月の判決を受ける。刑務所生活の中、ドクター・ドレーやスヌープ・ドッグ所属の西のヒップホップ・レーベルDeath Row Recordsと契約。Death Rowの設立者であるシュグナイトが保釈金を払い出所したが、レーベルからの贈与だったはずの保釈金は、のちに返済を求められ2パックはレーベルから抜けることができなかった。1996年、ドクター・ドレーによってプロデュースされた「California Love」(カリフォルニア・ラヴ)などのヒット曲を次々に出し、西海岸を代表をするMCとなった。「Hit ‘Em Up」ではビギーなどを酷くディスりBad Boy RecordsのMC集団をさらに挑発。1990年代のアメリカ・ヒップホップシーンは西と東の激しい抗争を繰り返し対立した。
2パックは、東西のラッパー抗争に深く関わる重要人物となった。1996年9月7日友人でもあるマイク・タイソンの試合をラスベガスで観戦後、横付けされたキャデラックから4発発砲され、25歳だった2パックは若くしてこの世を去った。この事件の犯人は未だに不明のまま、ノトーリアスBIGと同様に東西ヒップホップ抗争に巻き込まれた2パックは、伝説のラッパーとなった。ドキュメンタリー映画Tupac Resurrection(トゥパック・レザレクション)は、2005年アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画としてノミネート。数々のヒップホップアーティスト達にも影響を与えた2パックは、ケンドリックラマーや、コモン、ナズなどにサンプリングされるなど、彼無しではヒップホップは語れないと言っても過言ではないだろう。彼の革命的な生き様は、ヒップホップの全盛期に伝説を残し、今も語り継がれている。