
左からタリブ・クウェリ、コモン、モス・デフ、ジェームス・ポイザー、エリカ・バドゥ、クエストラヴ、ディアンジェロ、ロイ・ハーグローヴ、ビラル、Jディラ
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クエストラブ、エリカ・バドゥ、ディアンジェロ、Jディラ、コモンらがつくり上げたものとは
最近、友人のアンドレア・ローズ・クラークとの会話のなかで、私がいかに詩というものに興味がないかという話になった。もちろん例外はあり、アミリ・バラカ、ボブ・コーフマン、ヴィクター・ヘルナンデス・クルーズ、特にニトゼーク・シャンジの作品は好きだ。この詩人たちの言葉には電気が走っている。ハーレムに住んでいた少年時代、彼らの詩を読むと、文字が立体的に浮かび上がるラジオを聞いているような気分になった。言葉がページから躍り出して、ジェームス・ブラウンのようにひざまずき、頭を振り、汗をたらしながらグルーヴしていたのだ。
“私は音楽のなかに生きている”と、ニトゼーク・シャンジは1972年の作品で綴っている。“地球の上を人が歩くように/私はピアノの周りを歩く”。すでにボロボロになっている彼女の詩集『Nappy Edges』をめくっていると、ゴスペル、ジャズ、ソウル、ファンクなど、あらゆる音楽に抱いていた彼女の愛情が、ハーモニックなフュージョンのガンボ(スープ)のように、作品に染み込んでいることがわかる。この音楽のような文学を読んでいて抱く、胸が高鳴る感覚は、ソウルクエリアンズと呼ばれたヴードゥー・チャイルドたちの音楽が、そのときに偶然いた喫茶店やスーパーマーケットのスピーカーから、漆黒の海のように流れてきたときに得る感覚と同じである。


ソウルクエリアンズを構成する才能豊かなメンバーたち
ディアンジェロの“ピンプデリック”なファンク「Playa, Playa」、エリカ・バドゥの艶やかな「Kiss Me on My Neck」、ザ・ルーツとコーディ・チェスナットのロッキンな「The Seed 2.0」を聴くたびに、亡くなった友人たち(Rawkus Recordsの元広報デヴィン・ロバーソンや、ライターのトム・テレル)の顔が脳裏に浮かび、Centro Flyで行われた『Voodoo』のリスニング・パーティーでエクスタシーをキメすぎて狂ってしまった夜のことを思い出す。約20年前、ディアンジェロとクエストラヴがその後『Voodoo』として2000年にリリースされることになるアルバムの制作を1997年に始めた頃、世界を変えようと集まった者たちがソウルクエリアンズを結成した。
それから5年間、彼らが行った数々のジャム・セッションは、ザ・ルーツの『Things Fall Apart』(1999年)と『Phrenology』(2002年)、エリカ・バドゥの『Mama’s Gun』(2000年)、コモンの『Like Water for Chocolate』(2000年)、ビラルの『1st Born Second』(2001年)、そしてコモンの『Electric Circus』(2002年)といった作品の土台となった。この頃の彼らのヴァイブスとオーラは周辺アーティストの作品にも影響を与え、モス・デフの『Black on Both Sides』(1999年)、リースの『How I Do』(2001年)、タリブ・クウェリの『Quality』(2002年)にもソウルクエリアンズ・サウンドが見受けられた。
Bボーイ・ヒッピー、ボーホー・ジプシー、あるいはハードロック・フラワー・チルドレンとでも形容すべき恰好をしていたソウルクエリアンズは、同じ志を抱くミュージシャンで構成された緩いコレクティヴであり、メンバーとしてドラマーのクエストラヴを筆頭に、ビート職人のJディラ、トランペッターのロイ・ハーグローヴ、ラッパー/プロデューサーのモス・デフ、シンガー/プロデューサーのエリカ・バドゥ、マルチ奏者のディアンジェロ、キーボーディストのジェームス・ポイザー、ラッパーのタリブ・クウェリ、シンガーのビラル、ベーシストのピノ・パラディーノ、そしてソウルクエリアンズのインスピレーションとなったネイティヴ・タン所属のア・トライブ・コールド・クエストのラッパー/プロデューサー、Qティップなどがいた。


興味深いことに、ソウルクエリアンズの結成期において、Qティップの元マネージャー、クリス・ライティーが「もうQティップとは仕事ができない」と私に言ってきたことがある。「彼はロックスターになりたがっている」とライティーは大声で言った。それが本当かどうかは別としても、Qティップがその頃つるんでいた友人たちの奇抜な発想に影響を受けていたのは間違いない。ソウルクエリアンズ・ファミリーと親交の深いアーティストは他にも、シンガー/プロデューサーのラファエル・サディーク、シンガーのジル・スコット、プロデューサーのDJプレミア、ドラマー/プロデューサーのカリーム・リギンス、シンガー/プロデューサーのシーロー・グリーン、そしてプリンスなどがいた。
私にはブラック・カルチャー・ムーヴメントを少々ロマンチックに考えてしまうクセがあるが、それでもソウルクエリアンズは2005年に消滅してしまうまで、コーキー・マッコイが描くXメン風のコミックに登場してもおかしくないほどの、進歩的な音楽戦士たちであったことは間違いない。
ソウル、ヒップホップ、ジャズのあり方を革新したソウルクエリアンズ
1997年から2002年の5年間においてソウルクエリアンズが生み出した革新的なサウンドやヴィジョンは、その後に現れたフォトグラファー、ライター、ヴィジュアル・アーティスト、インディー映画監督、そしてもちろんミュージシャンやラッパーたちに受け継がれ、姿かたちを変えて生き続けている。ポスト・ソウルクエリアンズ世代のミュージシャンとして、ロバート・グラスパー、エスペランサ・スポルディング、ケンドリック・ラマーなどの名前を挙げることができるが、ケンドリック・ラマーの新作『To Pimp a Butterfly』では、ビラルが“アート版のネイト・ドッグ”とも言える個性を確立させていた。
音の実験家集団ソウルクエリアンズは、詩人のクロード・マッケイ、画家のビューフォード・ディレイニー、学者のアンジェラ・デイヴィス、そして作家のリロイ・ジョーンズといった偉大な先人たちの後に続き、ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジを拠点にして、世紀の変わり目における“新世代ブラック・ボヘミアン・コミュニティー”を生み育んだ。ステレオタイプ化した黒人イメージ(犯罪に手を染めるろくでなしや、金しか見えないクズ女など)に擦り寄ることを拒否し、まるで先達のファミリー・ストーンのように、多様な人種、性別が入り混じった集団として、「ソウルとは何か」という命題に対する回答をさまざまな角度から考察した。彼らはフェラ・クティとピンク・フロイドを、スライ・ストーンとジョニ・ミッチェルを、フィリー・ソウルとメイソン・ディクソン・ラインのファンクを同等に愛したのである。
Voodoo TourのときRadio City Music Hallで彼らの公演を二度観たが、スタジオのなかでもステージの上でも、彼らはカウント・ベイシーのバンドのようにスウィングし、ファミリー・ストーンのようにハードにファンクし、ザ・レヴォリューションのようにロックし、マディー・ウォーターズとマーリー・マールがコラボしていると錯覚させるほどダーティーな音楽を創出していた。ディアンジェロは1995年にこう言っている。「俺はザラついた、生々しい音楽がやりたいんだ。誰もが、自分の感情を揺さぶってくれる音楽を欲している」
『Voodoo』を制作するに当たり、前作よりも光沢がなく、より生々しくて黒い質感のサウンドが欲しいと考えたディアンジェロは、ソウルクエリアンズという船に乗り、多くの音楽的な航海者が途中で難破した、音楽革命の未知なる海原へと出航した。その冒険の舞台となったElectric Lady Studiosは、彼らにとってのAbbey Road、Gold Star、Sigma Sound、Paisley Park、あるいはD&Dだったのである。

ソウルクエリアンズ・サウンドを支えたスタジオ、Electric Lady
6番街のそばに位置するElectric Ladyは、もともとナイトクラブだったスペースを1968年にロック・ギターの神ジミ・ヘンドリックスが改築し、スタジオにしたものであった。その前年、スタジオのレンタル代として30万ドルを費やしてしまったジミ・ヘンドリックスは、建築家/ミュージシャンのジョン・ストリークとエンジニアのエディー・クレイマーに依頼し、その洞窟のような地下室を自身にとっての楽園のようなレコーディング・スペースに改造した。
「彼はElectric Ladyの内装を、そこで生み出される音楽と同じくらい美しいものにしようとしていた」と、ヘンドリックスの伝記作家デヴィッド・ヘンダーソンは著書『‘Scuse Me While I Kiss the Sky』にて語っている。同スタジオが完成する少し前からジミ・ヘンドリックスは大量の楽曲をレコーディングしていたが、オープニング・パーティーが行われた1970年8月26日が、ジミがこのスタジオにいた最後の日になった。
その1ヵ月後、27歳の若さでこの世を去ったとき、彼は『First Rays of the New Rising Sun』と題されたアルバムのためにたくさん楽曲を録音していたが、そのうちの何曲かは、死後1971年にリリースされた『The Cry of Love』に収録された。同アルバムの収録1曲目で1stシングルの「Freedom」は、エレキギター・マニアが崇拝するモンスター・ジャムのひとつであり、ジミは自由を求めてこう歌っている。“自由をくれ/今欲しいのは自由だけだ/今必要なのは自由だけだ/自由に生きる自由、人に与える自由”。
ジミ・ヘンドリックスの死後、スティーヴィー・ワンダーが、Motownの“ベイビー・ラヴ”サウンドとは違う新しいスピリットを自身の音楽に注入するため、デトロイトからニューヨークに来て、Electric Ladyを制作拠点にした。「でき得る限り、奇妙な音楽を作りたい」と当時、スティーヴィー・ワンダーは話している。Electric Ladyで彼は、1972年に発売された2枚の名盤『Music of My Mind』と『Talking Book』を作り上げた(ところで、コモンが生まれたのは『Music of My Mind』の発売10日後のことだ。これが数秘術的にどういう意味を持つのかはわからないが、かつてコモンと交際していた哲学者エリカ・バドゥにはきっと何かしらの説があるはずだ)。
「オフビート・リズム、型破りなコード、そして多重ハーモニー」 ―クエストラブ
そしてジミ・ヘンドリックスやスティーヴィー・ワンダーと同じ自由を求めて、ソウルクエリアンズはこの場所で制作を開始したのである。ザ・ルーツの4枚目のアルバムであり脚光を浴びるきっかけとなった『Things Fall Apart』と、ディアンジェロがネオソウルというレッテルを拒んで生み出した、ネジの緩んだ傑作『Voodoo』の2作を皮切りに、ソウルクエリアンズは、独自のダーティー・ソウルや、マディー・ウォーター・ブルース、Black Ark的ダブ・サイエンス、オールドスクール・ヒップホップ、鋭く響くギター・サウンド、奇妙なMoogサウンド、クラフトワーク的シンセ・サウンド、官能のロマンティシズム、啓示的リリシズム、アフリカン・チャントとアフリカ回帰思想、ピンプ政治学、そして宇宙的なノイズといった要素をゴチャ混ぜにして、音楽を生み出していった。
クエストラヴはソウルクエリアンズ・サウンドを、「オフビート・リズム、型破りなコード、そして多重ハーモニー」と定義した。ソウルクエリアンズは音楽の歴史を熟知していたが、同時に未来を志向することを怖れなかった。Qティップ、モス・デフ、タリブ・クウェリ以外のメンバーはニューヨーク出身ではなかったが、彼らはこの“野心の街”から音楽という翼を広げて舞い上がろうとした。生粋のニューヨーカーである私は幾度となくElectric Lady Studiosの前を通ったが、2000年にエリカ・バドゥが『Mama’s Gun』のプレス関係者向けのリスニング・セッションを行うまで、一度も足を踏み入れたことはなかった。

左からラゼール、コモン、エリカ・バドゥ、クエストラヴ
「白人音楽と黒人音楽が融合する時代になる」 ―エリカ・バドゥ
エリカ・バドゥが名アルバム『Mama’s Gun』で提示したもの
その晩はずいぶん長い時間待たされたが、ようやく始まり、新作の曲が流れると、来場したライターたちは静まりかえり、そこにいた全員がその魅惑的なサウンドに聴き入った。「アルバムの楽曲はほとんど、ジャム・セッションから生まれた」と、バドゥは音楽ライターのトム・ムーンに言った。トム・ムーンは自身の著書『1,000 Recordings to Hear Before You Die(死ぬまでに聴くべき1000枚)』に『Mama’s Gun』を入れている。「いい流れがくるまで、セッションを続けていたわ」。Billboard誌のライター、ラショーン・ホールのインタビューで、彼女はこう言っていた。「これからサイケデリックの時代に突入するわ。これはテクノロジカルなサイケデリックの波で、白人音楽と黒人音楽が融合する時代になる」
1stシングルの「Bag Lady」を収録する同作は、アンチ・ビヨンセ的と言えるサウンドを打ち出した神秘的な作品だった。私と同じく、『Mama’s Gun』を自身のフェイバリットの1枚に挙げるイラストレーター、ドン・エリーはこう語っている。「バドゥはピンク・フロイドの『Dark Side of the Moon』を、音楽的にもテーマ的にも一貫性がある完璧なアルバムだと考えていて、もし自宅が火事になったら持って逃げるほど愛していると発言している。多くの人がそれと同じことを『Mama’s Gun』について言うだろう。温かくて、ノスタルジックで、親近感がありながら新鮮味もある」
「楽曲は次の楽曲へ織り込まれていくように展開され、彼女の蜂蜜のように甘い声がそれを繋げる糸の役割を果たす。古着屋で買った服をお洒落に着こなす、内向的で気取らない女性。自分が完璧な人間ではないことを完璧に受け入れた女性。“Bag Ladyや“Green Eyes”といった曲はライブでも大きく盛り上がるファンのお気に入りだが、それはどちらも、誰もが共感できる人間らしさを曝け出している曲だからに違いない」
2002年、XXL誌の依頼でコモンにインタビューするため、私は再度Electric Ladyを訪ねた。コモンとエンジニアが座るStudio Bのなかで、彼の衝撃作『Electric Circus』を聴いていると、猫がふらっと部屋に入ってきた。「ジミだ」と、コモンは猫を指して言った。「ジミという名前で、このスタジオを守っている」。異端的な音楽実験を繰り返すソウルクエリアンズにとって、天才ジミ・ヘンドリックスの存在は光明の源だった。
ザ・ルーツが『Do You Want More?!!!??!』をリリースした1995年頃、クエストラヴはすでにサックス奏者のスティーヴ・コールマン、同じくサックス奏者のグレッグ・オズビー、ヴォーカリストのカサンドラ・ウィルソンといったミュージシャンの先輩たちと親しくなっていた。そしてクエストラヴは、ライター/ミュージシャンのグレッグ・テイトとブラック・ロック・コーリションを結成し、ロック・バンド、リヴィング・カラーのリーダーを務め、ドラマーのロナルド・シャノン・ジャクソン、プロデューサーのエイドリアン・シャーウッド、ラップ・グループのパブリック・エネミーらとレコーディングを行ってきたブルックリン出身のロック・ギタリスト、ヴァーノン・リードともよく会っていた。
ヘンドリックスを崇拝するヴァーノン・リードは、『Band of Gypsys』を高校時代に聴き、ギター・ストリングスの音色に夢中になったという。私自身も個人的に長年親しくしているリードは、映画、美術、コミック、エレクトリック・マイルス、ブラック・パワー、そしてSF小説など、さまざまなことに関して幅広い知識を有する人物であり、クエストラヴにとって最高の先輩だった。

クエストラヴとジェームス・ポイザー
クエストラヴが“天才”と呼ぶディアンジェロ
ソウルクエリアンズがこのスタジオを自分たちの基地にしてから、Electric Ladyの雰囲気はさまざまな表情を見せた。あるときは一体感に満ち、あるときは快楽主義が横溢し、神聖な瞬間もヘビーな瞬間もあった。画家のランス・ジョストが手がけたサイケデリックな宇宙船の壁画があるそのスタジオ内には常に、マリファナ、ナグチャンパ香、ボディーオイル、そしてディアンジェロが吸うタバコの匂いが充満していた。クエストラヴが“天才”と呼ぶディアンジェロは、Newportのタバコを次々と吸いながら、ピアノの前に座ってジャズを演奏したり、ヴァージニア州リッチモンドでペンテコステ派の一家に生まれた彼が少年時代に体験した、リバイバル集会や、異言や、聖霊の話などをしたりしていた。
あるいは場合によっては、ディアンジェロの当時のマネージャー、ドミニク・トレニエが連れてきたモデルの美女と同じソファーに座って、Qティップが持ってきていた『Divided Soul(邦題:マーヴィン・ゲイ物語 引き裂かれたソウル)』や『Beneath the Underdog(邦題:ミンガス 自伝・敗け犬の下で)』を読んでいたかもしれない。ソウルクエリアンズの音楽は、高貴でありながらも地に足がついており、難解でありながらもストリート感があり、オールドスクールであると同時にネクストレベルでもあった。彼らは大人の夜を演出する音楽も、ハードロッキングな音楽も、正気を疑いたくなるような音楽も作ることができた。たとえるならば、サミュエルRディレイニーのサイバーパンク小説に登場するような、地下に潜みながら日夜新しい音楽を創造して続けるアーバンなアウトロー集団、といったところか。
1995年、ディアンジェロが輝かしいデビュー作『Brown Sugar』をリリースし、ネクストレベルなソウルを提示してから、いくつものネオソウルの船が出航した。1998年にローリン・ヒルの『The Miseducation of Lauryn Hill』とアウトキャストの『Aquemini』がヒットすると、レコード会社の重役たちは非主流派の音楽性を見せるアーティストに興味を持ち始めた。当時Electric Ladyはソウルクエリアンズの面々にとって、リズムを研究し、偶然性を楽しみ、夢想の具現化を行う安息の地であった。「スタジオは生きていないといけない。機材が生きていて、頭がよくないといけない」と、リー“スクラッチ”ペリーも過去に言っている。ジャ・ルールやジェニファー・ロペスがチャート上で活躍していたが、ソウルクエリアンズの躍進と快進撃を止められる者は誰もいなかったのである。
1999年、当時の私が長年交際していた女性で、かつてア・トライブ・コールド・クエストやディアンジェロの広報を務めていたレズリー・ピッツが突然の死を迎えたとき、私はブルックリンに引っ越し、親しかったジャズ評論家のトム・テレルと、ウォッカに逃避する日々を過ごした。彼が執筆したマイルス・デイヴィスの『On the Corner』のボックスセットのライナーノーツには、今でもインスピレーションをもらっている。すでに『Bitches Brew』や『On the Corner』は好きだったが、彼は私にエレクトリック期のマイルスの魅力を熱弁し、ソウルクエリアンズがその頃にやっていたことについても熱く語っていた。モス・デフの『Black on Both Sides』を聴くように私に言ったのも彼であり、『Voodoo』があまり自分の好みではないと言ったとき、「もう一度聴いてみろ」と叱ったのも彼であった。いつでも彼は正しかった。

コモンとJディラが生んだ傑作『Like Water for Chocolate』
ソウルクエリアンズが夢中になって自分たちの音楽を生み出している頃、スタジオの外の世界では変化の兆しが見られるようになった。私の頭のなかでプリンスの「1999」が響くなか、世界は2000年代に突入した。その3ヵ月後、それまでは特に注目していなかったMC、コモンがMCAからデビューし、『Like Water for Chocolate』というアルバムを発表、衝撃を受けた。今振り返っても、同作は2000年代のベスト・ヒップホップ・アルバムのひとつだろう。クエストラヴがエグゼクティヴ・プロデュースを務め、ディアンジェロが「Cold Blooded」などを、ジェームス・ポイザーが「A Song for Assata」といった曲をプロデュースしたものの、大半の楽曲はデトロイト出身のプロデューサー、Jディラが手がけたものだった。コモンと同じくMCA所属だったJディラは、コモンの親しい友人であり、ルームメイトだった。
スラム・ヴィレッジを始め、Qティップやアリ・シャヒード・ムハマドとのプロデュース・ユニット、ジ・ウマーとしても活躍していたJディラは、すぐにコモンと親しくなった。「ジェイとはQティップの家で1996年に出会ったんだ」と、コモンは2005年のインタビューでライター、ロニー・リースに話している。「彼には特別な才能があった」。Jディラは、ヒップホップ・クラシックとして名高い『Donuts』をリリースした3日後の2006年2月10日、狼瘡(ろうそう)という病気により息を引き取っている。
Jディラの名盤について解説した書籍『33 1/3: Donuts』の著者ジョーダン・ファーガソンは、コモンとディラの関係性をこう綴っている。「ディラにとってコモンは、最初から自分の周辺にいた人以外で、初めて対等にコラボレーションできた相手だったと思う。おそらくウマーのときのQティップとは先輩後輩という関係性があったと思うが、コモンはプロデューサーではなくラッパーであったため、よい部分を互いに引き出すことができたのだ。コモンは、プロデューサーであるディラの判断を参考にしながら、自分のベストを提示しようとした」

先を行き過ぎたコモンの問題作『Electric Circus』
ゴールドディスクを獲得した『Like Water for Chocolate』からは、ビラルのプロ・デビュー曲となった「The 6th Sense」、グラミーにもノミネートされたアーバン・ラヴソング「The Light」、メイシー・グレイをフィーチャーした「Geto Heaven Remix T.S.O.I. (The Sound of Illadelph)」といったシングルが生まれた。
「他のラッパーは無難なことをやって満足しているけど、あのときの俺は、自分の精神において、自分の人生において、何か新しいことを必要としていたんだ」 ―コモン
2001年に入ってから、コモンの次作『Electric Circus』と、ザ・ルーツの5枚目となる『Phrenology』がElectric Ladyで制作開始されたが、2001年9月11日、Electric Ladyから3km以内の距離にあった世界貿易センタービルが倒壊した。事後1時間以内に、軍用トラックが猛スピードで到着し、空軍の飛行機が上空を旋回した。数日後、コモンはスタジオに戻り、『Electric Circus』の制作を続けた。あの悲劇を取り上げた漫画家アート・スピーゲルマンはグラフィック・ノベル『In the Shadow of No Towers』(2004年)で、「崩壊するタワーの光景は、全ての者の脳に焼き付いた」と綴っていた。言うまでもなく、感受性豊かなアーティストが作る音楽には、あの悲劇の影響があった。「死の臭いが、辺りに充満していた」と、コモンは言った。
ソウルクエリアンズと制作した日々について訊くと、コモンは私にこう話した。「俺にとってアーティストとは、心を開き、新しいことを取り入れて、それを自分らしく表現する人のことだ。他のラッパーは無難なことをやって満足しているけど、あのときの俺は、自分の精神において、自分の人生において、何か新しいことを必要としていたんだ」
結果的に『Electric Circus』のセールスは、期待を大きく下回った。アフロ・フューチャーな意欲作は、セールス的には大失態を演じることになり、コモン、ザ・ルーツ、Jディラたちが所属していたMCAは、以降、実験的な作品をサポートしない方向にシフトした。Electric Ladyでひたすら創作活動に励む日々にも終焉が訪れてしまった。深夜の愉快な音楽集会は、ガス欠のマザーシップが地球に墜落したかのように、突然終幕することになった。
それから13年が経った2015年の今、ディアンジェロ&ザ・ヴァンガードの『Black Messiah』を除いて、ソウルクエリアンズの作品と言えるアルバムは登場していないが、かつてElectric Ladyに集まっていたブラック・ボヘミアンたちは、人気トーク番組の専属バンドになったり、アカデミー受賞者になったりと、それぞれがそれぞれの道で出世し、活躍している。彼らを取り巻く環境は、今では大きく様相を変えているが、それでも彼ら、音楽の風雲児たちが1997年から2002年の間に見せていたスピリットは、永遠になくなることはない。ニトゼーク・シャンジと同様、ソウルクエリアンズもまた「音楽のなかに生きている」のだ。
Words by Michael A. Gonzales for soulhead.com / Photos courtesy of Getty Images