Contents
- 1 ギャングスタ・ラップ・スター、アイス・キューブのソロデビュー前夜
- 2 N.W.Aのメンバーとしてヒップホップ・シーンに登場したアイス・キューブ
- 3 アイス・キューブ率いるクルー、ダ・レンチ・モブ
- 4 デビュー・アルバム『AmeriKKKa’s Most Wanted』の制作風景
- 5 コンクリート・ジャングルで生まれたブラック・カルチャー、ヒップホップ
- 6 アイス・キューブの故郷、サウス・セントラル
- 7 レーベル/マネジメント会社、Street Knowledge Productionsを立ち上げたアイス・キューブ
- 8 N.W.A『Straight Outta Compton』のヒット、そしてグループ脱退
- 9 ラップ・グループ、アバヴ・ザ・ロウとのビーフ
ギャングスタ・ラップ・スター、アイス・キューブのソロデビュー前夜
アイス・キューブが1990年にリリースしたソロ・デビュー作『AmeriKKKa’s Most Wanted』は、ギャングスタ・ラップの金字塔であり、西海岸のヒップホップを語る上で外すことの出来ない重要作である。当初はドクター・ドレーにプロデュースしてもらうことを計画していたものの、N.W.A、特にジェリー・ヘラーとの不仲によってそれを断念せざるを得なくなったキューブは、当時、東海岸でポリティカルかつラディカルなヒップホップを生み出していたパブリック・エネミーのチャックDとボム・スクワッドに制作を依頼した。キューブの相棒、サー・ジンクスとパブリック・エネミーが共同で制作したそのサウンドは、東と西の奇跡のコラボレーションとなり、アイス・キューブがソロ・アーティストとして成功を手にするきっかけとなった。1990年、その『AmeriKKKa’s Most Wanted』の制作期間中に、ジャーナリストのマイク・セイガーは3週間に渡ってアイス・キューブを密着取材した。この長編記事にはラップ・スターとして、そしてその後映画俳優としてサクセス・ストーリーを実現させる直前のアイス・キューブの素顔が、生々しく描かれている。
ニガたちの逆襲が始まるぞ
ぞんざいな扱いにはもううんざりだ
俺をヤワな野郎と間違えるな
ナメやがったらこの9ミリが火を吹くぞ
お前らが恐れてる日はいつか来る
ニガたちの報復だ、想像してみろ
奴らは俺の前進を止めようとする
身を低くする暇なんてない、突進だ
それで奴らはAKを禁止にしたって?
俺の銃はどうせ未登録だから関係ねぇ
さぁ逃げろ、せいぜい隠れろ
車をゆっくりと走らせて、狙いを定めるぜ
全てをむちゃくちゃにしてやろうじゃねぇか
キャデラック・ブロアムのオープンカーからぶっ放す
さぁ誰が最初に倒れるか
警察か、メディアか、セルアウトした奴らか
そしてやたら黒人地位向上を謳うくせに
海外に行ったらすぐアメリカを恋しがる奴ら
俺たちはギャングやドラッグを美化すると言う
そして俺らみたいなニガには目を背ける
俺が伝えるのはストリートの知恵
なぜ大学よりもムショにニガが多いんだ?
それを言った俺もムショ行きになるかもな
お前らが憎むニガからのメッセージだ
N.W.Aのメンバーとしてヒップホップ・シーンに登場したアイス・キューブ
オシェイ“アイス・キューブ”ジャクソン、21歳、色黒、がっちり体型。Nike、Levi’s、Swatch、Gapを好んで着用。彼はプロダクト(産物)でありプロトタイプ(原型)。反体制の活動家であり企業家。ビートにのせて現実を伝えるレポーターであり、リズミック(R)・アメリカン(A)・ポエトリー(P)(通称RAP)の書き手。アイス・キューブがバリトン・ボイスで繰り出す不穏なラップは、時代を象徴するアンセムだ。劣悪な下層階級の世界から吐き出される、穏便とは無縁な、斜に構えた、憎しみに溢れた、原始的で粘着的な言葉たち。ストリート・ナレッジを専門とする彼が描く情景は、彼の周りに広がる世界の忠実な姿。ありのままの、醜い、真実である。ギャングやヤクの売人。ホーミーに娼婦。ライフルや拳銃。Jeep、Alpineのカーステレオ。銃をポケットに忍ばせたハナタレ小僧。
キューブはラップ道のハードコア流派を心得るMCだ。アイスT、ルーサー・キャンベル、パブリック・エネミー、そしてニガズ・ウィズ・アティテュード(N.W.A)のように、アイス・キューブは時代の波に乗り、アメリカを席巻する音楽ムーブメントを表現、そして金儲けの場として活用し、ワルの音楽で国を魔法にかけた。全米の親や警察、メディアがアイス・キューブやその類のアーティストを激しく非難するが、Billboardやグラミー賞ではラップ・カテゴリーが追加され、ブラック系のアルバムやシングル・チャートにはラップ曲が多くランクインしている。ロサンゼルスからブルックリンまで、人はラップ・ランゲージでコミュニケートし、国中のショッピング・モールではヒップホップ・ファッションが取り揃えられている。ラップを取り入れた映画、コメディ番組、ビデオ番組、コマーシャルが次々と放送されている。Pillsbury社(註:米国の老舗パン生地会社)のマスコットでさえ、今やラップをしている時代だ。
キューブは、ロサンゼルスはサウス・セントラルのフッド出身のクルー、ニガズ・ウィズ・アティテュードのメンバーとして最初に脚光を浴びた。彼はN.W.Aの1stアルバム、『Straight Outta Compton』の大半の曲を作詞し、その後はN.W.Aのリーダー、イージーEのソロ・アルバムの楽曲のリリックも手がけた。これまで彼は評論家にこき下ろされ、MTVには放送を禁止され、ラジオにはそっぽを向かれ、FBIにはマークされ、シンシナティの警察に出頭を命じられた。
しかし、ここ2年で(1990年執筆当時)、彼の楽曲は400万枚に近い売上数を叩き出している。彼の1stソロ・アルバム『AmeriKKKa’s Most Wanted』は、10日でゴールドディスクを獲得し、3ヶ月でプラチナ認定された。
「てめぇら全員、クソ喰らえだ!」と、アルバムのイントロ「Better Off Dead」でキューブは言い放っていた。

アイス・キューブ率いるクルー、ダ・レンチ・モブ
夕方にさしかかるころ、アイス・キューブと仲間たちが起きだした。4月のニューヨーク。グリニッジ・ストリートのオシャレな共同アパートの中2階のベッドルーム。黒革。青のネオン。電子玩具。壁には、実物大の裸の白人女性のブロンズ製の浮き彫りが飾られている。キューブが借りている部屋である。彼は『AmeriKKKa’s Most Wanted』の制作をチャックDとパブリック・エネミーと行うため、ニューヨークに5週間滞在していた。同じアパートには彼のクルー、ダ・レンチ・モブのメンバーも泊まっていた。
ラップはトライバルなカルチャーであり、ラッパーには取り巻きがつきものだ。キューブはメンバーたちの渡航費を払い、数日間だけ来てもらっていた。彼らは夜行便に乗って来ており、ニューヨークに2、3日滞在し、キューブの曲の客演やサビのコーラスなどを録ったあと、また西海岸に戻る予定だ。ラッパーを取り巻くクルーはギャングに性質が近いが、縄張りやドラッグを中心に集まるのではなく、彼らはキューブに忠誠を誓う。N.W.Aと縁を切ってから、信頼できる仲間を自分の周りに置くことが重要だと気づいたと、キューブは言っていた。
そのうちのひとり、サー・ジンクスは19歳であり、キューブのプロデューサー、そして右腕だ。ジンクスは4つのゴールドリングをはめ、ななめのハイトップ・フェード・ヘアスタイルにスチールウール状のポニーテールをしており、タグをつけたままの高級ハイキング・ブーツを履いていた。高校三年のときに退学した彼は、由緒正しい正統のイギリス英語をうろ覚えで喋ることができる。ラップ・ミュージックで儲かったあとは、ヘアサロンを開業するのが夢である。
Tボーンはキューブのハイプマン。「言ってやれ!」「そうだ、キューブ!」といった合いの手を担当。小柄だがパワフルであり、頭は刈り上げのフェードスタイル。キューブとは同じサウス・セントラルのフッドで育った幼馴染であり、白人中学校に向かう通学バスで出会い、仲良くなった。Tボーンは21歳。卒業式の次の日から印刷屋で働いており、時給12ドルを稼ぎ、昇格の話もある。だが、キューブがツアーに行くことになったら迷わずそちらを選ぶ。
Jディーも同じゲットーの出身だ。23歳。4年前に銃撃戦で父親を亡くしているが、14歳のときから自分の身は自分で守ってきた。彼は以前ギャングに入っておりヤクの売人をやっていた(Jディーはジャンキー・ディーの省略)。手には“N-HOOD”というタトゥーが掘られているが、108丁目、ウエスタン、インペリアル、ヴァン・ネス通りに囲まれた地域を仕切る、ネイバーフッド・クリップスの一員である。もしキューブもギャングに加入していたら、N-HOODになっていたであろう。Jディーは自動車メーカーGM社に務めた経験があり、ビバリーヒルズのジュエリーショップで警備員の仕事もしていた。警備員の仕事は態度が悪いという理由でクビになったのだという。オーナーは彼に黒人の客から目を離すなと言っていたが、このことに腹を立てたJディーは、白人の客の後を追うようになった。現在、彼は休職中である。先日、自動車保険のために500ドルが必要になったときは、路上に立って3時間でその額を稼いでいた。
さらに、アパートにはロブも泊まっていた。ニューヨーク生まれのロブは、パブリック・エネミーが派遣した運転手兼パシリである。すそを高くロールアップしたLevi’sのジーンズを腰履きし、キャップのつばを横にしてかぶっていた。彼はそのキャップを、チームが好きだからという理由ではなく、色が好きだから選んでいた。イケてるヤツは、キャップとスニーカーの色を合わせるのだという。カリフォルニアから来たキューブたちはロブのファッションを馬鹿にした。大きく違うところはキャップを横にかぶることと、ジーパンをロールアップしていたところぐらいだが、それだけで十分なのだ。彼らにしてみれば、彼らのセンスと違うものは全てワックなのである。
しかしロブは、役に立つところもあった。ハンバーガーやフィッシュフライなどの注文の仕方をキューブたちに教えたのだ。それまで、ハーゲンダッツのバニラアイスとチョコチップ・クッキーがキューブの主食であった。慣れない大都会で、彼が唯一足を踏み入れる飲食店はマクドナルドと、レコーディング・スタジオの向かいにある小洒落たレストランであった。キューブたちがその店に行くときは、カウンターに座り、ホワイト・ルシアンをストローで飲み、バッファロー・チキン・ウィングを食べる。初めてJディーが同店に訪れたときは、店を見渡し、黒人は自分だけであることに気づき、しばらく検討したあと、チキン・ウィングをフォークで食べたという。ロブはまた、彼らをクイーンズにあるショッピング・モールに連れて行った。そこでジンクスはテニス・シューズ、コーデュロイのズボン、ダイアモンドとゴールドの指輪、そしてラジコンに2,000ドルを使っていた。

「昔、黒人を“ニガー”と呼んでいた時代、その言葉は馬鹿で下等な人間を意味した。そうだろ? でも今、俺たちはその言葉を使ってマザファッカどもを逆に引っ叩いてるんだ。これが1990年の“ニガ”だ」 ―アイス・キューブ
昨夜は夜遅くまでスタジオで制作をしていたキューブが、中2階の部屋から降り、キッチンに向かった。前から見ると、彼の表情には殺意しか感じられない。つり上がった眉に、鋭い目つき。Tシャツには、眉間が銃で撃ち抜かれているスマイルマークがプリントされていた。しかし横から見てみると、シーツのシワが刻まれ、眠気が抜け切れていない、ずんぐりとしたその顔と、縮れたくせ毛に少年らしさがあった。例えば『ミュータント・タートルズ』の映画予告がテレビで流れ、彼の悪魔のような目がとつぜん輝き、分厚い唇に笑みが現れ、「おお、これは絶対見るぜ!」と嬉しそうに言ったときなど、あどけない一面がこぼれ出る瞬間が、稀だがあった。
キューブのクルーのメンバーがボソボソと「おはよう」と挨拶を交わし、床に散乱する服を拾って、着替え始めた。このアパートにはベッドはひとつしかない。それはキューブの寝床となり、ジンクスはリビング・ルームの大きなソファ、JディーとTボーンは二人掛けのソファと椅子を使い、ロブは床に寝た。
突然、キッチンから怒鳴り声が響いた。
「俺のジュースはどこだ!」
皆の動きが止まり、不安そうな視線が交差した。
「俺はジュースなんて飲んでないぜ」と、Tボーン。
キッチンから現れたキューブは、手を挙げ、頭を揺らしながら、「じゃあカネを出し合おうぜ」と言った。
「なんのために?」と、ジンクスがきいた。
「ジュース、クッキーとかポテト・チップスを買うためだよ」とキューブ。
「ならこいつに言えよ」と、ジンクスはロブを指差した。
「ジュースを飲んだのは自分だろう」と、ロブが言った。
「クソ!」と、キューブ。「俺は4つのクッキーとジュースをひとつ残しておいたんだ。てめぇらナメてんじゃねぇぞ」
キューブは取り出した分厚い札束から20ドル紙幣を抜き、ロブを買い出し役に任命した。ロブは不満そうにしぶしぶと出て行った。そしてキューブたちはテレビの前に集まった。フッドでは、テレビはつけっぱなしが当たり前であり、常にサブリミナル・メッセージと世界情勢を届けながら部屋を温めている。キューブのリリックには、テレビネタが豊富だ。「A Gangsta’s Fairytale」は、トイピアノで演奏した『Mister Rogers’ Neighborhood』のテーマソングのフレーズが入っている。曲の歌詞では、ジャックという人物が性病にかかり、『Bewitched(邦題:奥さまは魔女)』に出てくるドクター・ボンベイに会いに行く、というストーリーが展開する。また他の曲では、“デストロン(トランスフォーマー)のように変化する”といったリリックも登場する。
しかし今、テレビの前に座ったキューブは見たいものがみつからず、チャンネルを頻繁に変えながらジュースとクッキーの到着を待った。キューブは子供のときから大のテレビっ子であった。お気に入りはスポーツ、アクション映画、そして黒人キャストのコメディ・ドラマ。あるとき、彼はコメディ・ドラマ『Good Times』を見ていた。そのときの回は、父親が現金を拾うというストーリーであった。彼はゲットー出身の妻子持ちであり、常に求職中であった。しかしそのエピソードのオチでは、父親が現金を持ち主に返していた。その瞬間、キューブは悟ったのだと言う。「テレビなんて嘘ばっかりだ」と。
「よぉ、聞いてくれ」と、リモコンを持ち上げて彼は言った。「黒人が出てる番組が見つけられるかどうか、試してみようぜ」。するとキューブはチャンネルを順番にひとつずつ変えた。「いない。このチャンネルにもいない。これもなし」と、彼は言う。「お、ひとりいたぞ。野球の試合だ」。そのままチャンネルを変え続け、1から43チャンネルまでいくと、彼は統計を発表した。野球のコーチ。黒人映画『House Party』のCM。映画のエキストラの兵士。そして『Good Times』のJ.J.。全部で4番組であった。「俺が言ってるのは、こういうことだ」と、キューブは言った。「アニメでも見たほうがまだましだ。こんなのリアルじゃねぇ。俺は黒人だ。その視点でしか見ることはできない。子供のころは、クリスマスだとか誕生日ぐらいしか頭にねぇ。でも年を取って、そのうち世の中をよく見るようになって、“世の中ってクソだな!”ってわかってくるんだ」
彼はさらにチェンネルを変えた。すると、ネイション・オブ・イスラムの議長、ルイス・ファラカンの顔がアップで登場し、キューブは釘付けになった。なんと『Donahue』に出演していたのだ(註:白人パーソナリティ、フィル・ドナヒューが司会を務める政治的なトーク番組)。「よぉ、見ろよ。フィルのやつ、汗だくだぜ」と、Jディー。
たしかにフィル・ドナヒューの髪は乱れ、握るマイクは小刻みに震えていた。観客席の黒人から野次が飛び、白人の観客は居心地悪そうに座っていた。ファラカンは足を組み、手を合わせ、穏やかに座っている。蝶ネクタイは完璧な水平を保っている。キューブは微動だにしない。
フィルは興奮しており、ファラカンは落ち着き払っていた。緊迫した雰囲気のなか、番組が終わった。キューブは身を乗り出して、スタッフロールを凝視した。すると考えごとをしている表情で立ちあがり、部屋のなかを行ったり来たりし始めた。そして「ニガという言葉の使用について話し合いたい」と発表した。
「人はこう言う。“なぜ、ニガって言葉を使うんだ?”それは、こういうことだ。昔、黒人を“ニガー(nigger)”と呼んでいた時代、その言葉は馬鹿で下等な人間を意味した。そうだろ? でも今、俺たちはその言葉を使ってマザファッカどもを逆に引っ叩いてるんだ。言ってることわるか? 世の中のニガたちがみんな、俺みたいな考えを持ったら、世界が変わるぜ。これが1990年の“ニガ(nigga)”だ。この言葉に違う意味を持たせたんだ。
奴ら(註:白人)が気に食わないのは、俺とかN.W.Aとかを利用して金儲けができないときだ。つまり、俺の弁護士も黒人、マネージャーも黒人。Tシャツを作ってもらう人も黒人。ビデオを作ってもらう人も黒人。俺がコントロールできることは全て黒人に任せることで、奴らは俺の懐からカネを奪うことができない。そうやって奴らに攻撃する。それが1990年代のニガの姿だ。社会の目の敵のニガだ」
アイス・キューブは興奮ぎみに部屋のなかを歩きまわり、空中をパンチし、ときに立ち止まってソファの背もたれや椅子の肘掛け、テーブルのはじに座っては、また歩き出す、といったことを繰り返した。
「ファラカン師は、400年前に黒人が受けた屈辱に対して償う責任が白人にはある、と言った。しかし実際、奴らはそんなことなんてしちゃいない。“40エーカーとラバ1頭をください”だって?(註:開放された奴隷に対して補償として約束されたもの)そんなのねぇよ。だから、俺たちは自分たちで、力づくで手に入れていかなきゃいけねぇんだ。もし家にいて、車がなかったとしたら、誰かに迎えに来てもらうまで待つんじゃねぇ。どんな手段でもいいから目的地に向かうんだ。わかるか?
「テレビのネイチャー系番組でよく観るだろ? 母鳥が餌を持って巣に帰ったら、子鳥たちの取り合いが始まるシーン。最終的には、いったいどれだけの食べ物を食卓に置けるか、ということに要約されるんだ。それ以外のものは全てクソだ」

デビュー・アルバム『AmeriKKKa’s Most Wanted』の制作風景
「お前、どこでそんなシャツ買ったんだよ!」と、ジンクスは驚き、笑った。
「古臭ぇな!」とロブ。
「そのシャツ古すぎて、歴史が刻まれてるぜ」と、チャックDが言うと、耳に手を当てた。「耳を澄ましてみろ、聞こえるぞ。“メッツ、優勝!”」
「ウィルト・チェンバレン、100点を獲得!」
「奴隷解放!」
「キリスト誕生!」
茶化されているのは、アル“パープル”ヘイズ。茶化しているのはダ・レンチ・モブの面々。パブリック・エネミーのメンバーもいる。場所はソーホーにある地下スタジオ、Greene Street Studios。隣の部屋で流れているアイス・キューブの制作中のアルバムの1曲が、開いたドアから聴こえてくる。L字型のソファにはパブリック・エネミーのプロデューサー、ハンク・ショックリー、チャックD、Jディー、ジンクス、ロブ、キューブ、そしてランDMCのランが座っていた。
N.W.Aには未来を感じなくなり、キューブがチャックにアルバムをプロデュースしてくれないかと頼んだのは、1月のこと。何回か予定変更があったあと、ついに制作が開始され、イースト・コーストとウエスト・コーストのハードコア・ラップの衝撃のコラボがスタートしたのである。白と黄色のゴルフ・ボールとティーがデザインされた緑色のスーツ風パジャマに、くるぶしまでの丈のアシッドウォッシュ・デニム生地のシープスキン・コートを肩からかけている奇抜なジンクスは別として、その場にいる彼らは一目、路上でいつもつるんでる仲良しクルーにしか見えないほど馴染んでいた。太めのコーデュロイや、黒のLevi’s。オーバーサイズのスウェットシャツ。革製のアフリカ・ペンダントをつける者がチラホラ。キャップ、Nike、そして様々なヘアスタイル。なかでもキューブが一番地味な格好をしていた。黒のGapの服にLA Raidersのニット帽。もちろんテレビはついており、グラミー賞授賞式がやっていた。
アル・ヘイズは壁際に立ち、苦笑いしていた。服が古い、タイトすぎる、ダサい、とディスの嵐を受けている。ジンクスは今回の5週間の滞在で2万ドルほどもらうことになっており、キューブがPriority Recordsからもらった前払金はだいたい25万ドルであったが、5週間のレコーディングに毎日足を運ぶ予定のヘイズは、せいぜい600ドル程度のギャラを持って帰ることになる。
ヘイズはハーレム出身のミュージシャン。ギター、ベース、キーボード、ドラム、ハーモニカを得意とし、多少ならサックスも演奏できる。8歳のころ、安物雑貨店で購入したダンボールのギターで楽器を始めた。現在29歳の彼はクラシックとジャズ・ギターの教養があり、ロングアイランドのFive Towns大学で学士号を取得した。ハーレムのコンビニで働いている彼は毎晩、スタジオに訪れ、席が空いていれば座り、誰かが座りたがったら席を譲り、「いいね」「最高だね」と感じ良く振るまい、いつか生演奏が求められることを、埋められていくレコーディング・テープに自分の音を入れるチャンスが来ることを、根気強く待っている。すでに何回か彼の出番があった。「Once Upon a Time in the Projects」では、ワウペダルを使ったギターサウンドが数小節求められ、「I’m Only Out for One Thing」ではベースラインを弾き、「The Nigga Ya Love to Hate」ではギターソロまで録音した。たった2小節だが。
「新しい服、買えよ!」と、ハンク・ショックリーが言った。
「そのシャツ、ピチピチすぎて自由の女神が着たら腕をおろしちゃうぜ」と、キューブが言った。
「ツインタワーがピッタリくっついちまう」と、世界貿易センタービルについてジンクスが言った。
「世界全体が縮んじゃう。アメリカがたったの2フィートで横断できちゃうぜ」とチャック。
「よぉ、ちょっくら道を渡ってカリフォルニアに行ってくるわ。何かいる?」と、ジンクスが言った。
「俺、ちょっとロンドンまでジャンプしてくるわ」と、キューブが言って、飛び上がってみせた。「よぉ、時間も縮まってるぜ。クリスマスかと思ったら、すぐに正月。かと思ったらまたクリスマス。俺25歳。クリスマス、正月。俺、46歳。クリスマス、正月。プラチナ・アルバムが14枚!」と笑った。
壁際のヘイズは、肩をすくめ、何も言わなかった。これが音楽業界の未来なのだ。レコーダーには24トラックあるが、ミュージシャンは彼以外にいない。仕事が選べるような状況ではないのだ。
このレコーディング・セッションに使われた楽器は、パソコン、声、古いレコード、CD、映画やテレビのサウンドトラック。まずはジンクスがドラム・マシンで土台となるビートを組むところから始まる。キューブがそれにあわせて軽くラップをし、ジンクスがサンプリング・ネタを探し、スクラッチやSEを加えていく。トラックはアレサ・フランクリン、マーヴィン・ゲイ、ジェームズ・ブラウン、オハイオ・プレイヤーズといった古いソウルの断片を、パソコンと想像力を駆使して組み合わせて、出来上がっていく。ジンクスの頭のなかに使いたい音が浮かぶと、それをレコードの中から探す。彼は友人の親や、レコード店の埃まみれの箱からレコードを調達してくる。
リハーサルは入念に行われる。キューブのクルーがマイクの周りに集まり、サイコロ博打をやっている演技をしたり、サビで使われる「ファック・ユー、アイス・キューブ!」をシャウトする。Tボーンは「Rollin’ Wit the Lench Mob」のイントロのひとつのフレーズを完璧に録音するのに30分かかった。「A Gangsta’s Fairytale」のイントロでは、9歳の少年の声を録音した。キューブは少年をブースに連れて行き、「よぉ、アイス・キューブ、なんでいつもビッチだのニガだのってラップしてんだ? たまには子供たちのためになにかラップしたらどうだ?」というセリフを練習させた。スキット「The Drive-By」では、NBCのアナウンサーが「サウス・セントラルで起きているバイオレンスは、街に住んでいる人以外には他人事であり、無視されている」と喋っている音声を挿入した。「A Gangsta’s Fairytale」でのアナウンサーの声は、Greene Streetで電話対応をしていた白人のミュージシャンを呼び込んで、録音したものだった。
ジンクスのセンスが特に光っているのが、「It’s a Man’s World」。女の視点を代表して女性ラッパーのヨーヨーが参加しており、男中心の社会だと主張するキューブと口論仕立てにデュエットしている曲だ。この曲でジンクスは持っているレコードを隅々まで聴き、「ビッチ」という言葉が出てくる曲を探した。そして「ビッチ」という言葉をひとつひとつE-MU SP1200にサンプリングしていき、ピッチやサステインをいじり、キーボードの鍵盤にそれぞれの「ビッチ」を振り分け、指2本を使って演奏。「ビッチ」ネタだけの曲を60秒間作り上げ、それが曲の一部分に挿入された。
ラップ曲におけるサンプリングに関して、多くの議論が交わされ、たくさんの訴訟が起こされてきた。そのことについてキューブに聞くと、おそらくラップ・コミュニティ全体の意見なのだろうと思える見解が返ってきた。「スライ・ストーンの曲を使ったとしよう。最後に彼がヒット曲を出したのなんて、いつだよ? サンプリングでカネがもらえるんだ。もし俺たちが奴らの音楽を使ってなかったら、昔の音楽として忘れられてたぜ」

「俺たちはただリアルなことを言っているだけだ。実際にストリートに出てみろ。外はディズニーじゃねぇぜ。リアルだ」 ―アイス・キューブ
コンクリート・ジャングルで生まれたブラック・カルチャー、ヒップホップ
ラップはヒップホップというカルチャーの一部である。下層階級の若い黒人たちによる自己表現の形であり、ブラック・パワー・ムーブメントの生まれ変わりだ。もしヒップホップが国だとして、“ホーミー”が部族だとしたら、ラップ・ミュージックは国歌だ。ヒップホップはファッション、言語、態度、行動におけるスタイルの総称である。ヒップホップからグラフィティやブレイクダンスが生まれた。そしてまた、アメリカ社会は大理石のタワーではなく、アスファルトのジャングルで生まれた文化を横取りし、大衆文化として広めている。ジャズ、ブルース、ロックンロールはどこから生まれたのか? コーンロウ(ドレッドの編み込み)は? プラットホーム・シューズは?
ここ10年で、ヒップホップは西ブロンクスからマディソン街、そしてアメリカ全土のお茶の間へと浸透していった。アメリカでは新しい表現が社会の底辺で生まれる、というのは皮肉なことだ。下層階級は、上流階級を見習い、努力をして成功への保証された道を辿るべきだと教えられる。しかし、音楽、ダンス、ファッションなど、人生の成功に直接関係のない娯楽になると、上流階級はつねに下層階級を手本にしている。もしかしたら人種的、政治的に優勢な立場を手にする性質を持った人々には、新しい人生の楽しみ方を生み出す力が欠けていることが多いのかもしれない。そしてそのまた逆も言えるだろう。
別の日のこと。ニューヨークのオシャレな借宿の向かいに駐車されたレンタルカーに座り、ドアを開けて、片足を出して、アイス・キューブはロブにスタジオに連れて行ってもらうのを待っていた。キューブはダッシュボードを触り、ため息をはき、落ち着きなく動き、シートの下に手を伸ばした。すると黒のスプレー缶を発見した。ジンクスがプラモデルの着色に使っていたものだろう。キューブは缶を振り、中の球を弾ませ、一定のリズムでビートを刻んで時間を潰した。
フロントガラス越しには、いかにもカネを持ってそうなヒップスターたちが通り過ぎるのが見える。グルメ・マーケットの前を花束を持って横切る人、デザイナードッグを散歩する人、ジョギングをする人。それを呆れて眺めるキューブ。彼は缶のキャップをとり、あたりを見回して誰もいないことを確認した。そして歩道にスプレーで“LENCH MOB”と落書きしながら、哲学的なトーンでこう言った。「黒人からしてみると、白人が皆ダサく見えてしょうがねぇんだ」
白人。彼の音楽のことをとやかく言うのはいつだって白人であった。PTA、警察、政府。白人が彼の音楽を理解できるはずがなかった。キューブは全く別の言語を喋っている。それは詩であり、メタファーであり、英語はあくまでベースになっているだけだ。車の中から銃をぶっ放すことをラップしているとき、本当に人を殺すことを歌っているのではなく、無知や抑圧を抹殺することを意味しているのだと、キューブは言う。白人であったら、10回は聴かないと彼が言っていることはわからないだろう。そして10回聴いても、おそらく説明がないとピンとこないことだらけだろう。
ヒップホップ言語において、フレッシュなワードはすぐにワックになる。新しく登場した語句はすぐに死語になるのだ。少し前だったら、「シーヤ!」というのが別れ際のイケてるあいさつだったが、今では「ファイブ・サウザンド、G」というのが通だ。“G”はガイ(男)やガール(女)を表している。なぜ“ファイブ・サウザンド(5,000)”なのかは誰も知らない。しかし、そんなことはどうでもいいのだ。ヒップホップ・ランゲージは想像力に富み、不完全であり、曖昧で、時制に欠け、原始的で、印象を重視し、擬音が多い。もしかしたら、ヒップホップにおける最も長寿な2大フレーズが「You know what I mean? (意味わかる?)」と「You know what I’m sayin’?(言ってることわかる?)」なのは、そういったことに起因するのかもしれない。
彼の地元ではもちろん、その言語が通じる。キューブはフッドの男や女のために音楽を作っているのだと言う。これは、彼と彼らとの対話なのだ。キューブのレコードを買っているのがフッドのホーミーだけであったころ、誰も彼の歌詞に文句は言わなかった。もちろん、彼の音楽は汚い言葉が多すぎてラジオでは放送されていなかった。しかしキューブもN.W.Aも、ラジオなど必要としていなかったのだ。彼らの音楽は口コミで十分売れていた。昔、彼らの音楽を取り扱っていたのはRight On!、Word Up!、Yo!といった雑誌のみであった。しかし今では、郊外に住む白人の若者たちがこぞって彼の音楽を買っており、こんな音楽を売ってはだめだと文句を言う大人が増えている。ラップはただの一時的なブームであると考え、早く衰退することを願っている人達がたくさんいることを、キューブは百も承知だ。People誌の電話インタビューで彼はこう言っていた。「ラッパーである俺が、実の父親よりもその子供に影響を与えているとしたら、自分には親のような責任があると思う」
キューブは、なぜこれほど世間で騒がれるのか理解できないと言う。彼は自分が知っていること、これまで見てきたこと、学んだこと、日々の生活にあったことをラップしているだけなのだ。黒人のキッズがお互いを殺しあっていること。警察が黒人を殺していること。ドラッグ、カネ、服、セックスが今時の若い男の象徴になっていること。プロジェクトに住む低所得者は国が支給するカネで暮らしていること。黒人の男性はいつだってピンプとして見られ、黒人の女性はいつだって娼婦のように扱われること。黒人のためを思って発言している白人は、結局黒人のことを何もわかっていないということ。ラジオを消せ、とキューブは曲で訴えかける。自分でプログラムを作れ。彼は同胞に向かってラップしているのだ。なぜ白人が怒るのか?
「俺はこう思う」と、キューブは言う。「よぉ、白人様よ。なんでそんなに怯えてんだ? もし白人対黒人の戦いが勃発したら、どうせ不利なのは俺たちだ。俺たちは銃だって弾だって作っていない。ミサイルなんて持っていない。その気になれば、奴らは俺たちを抹消することなんて容易い。そうだろ?」
「俺たちのしゃべり方は汚いと奴らは言う。クソが。俺たちはただリアルなことを言っているだけだ。実際にストリートに出てみろ。外はディズニーじゃねぇぜ。リアルだ」
「白人はよ、黒人は皆人種差別的だとか言いやがる。そんなわけあるか? 人種差別をしていたのは白人だ。それに対して黒人が怒っているんだ。全てをコントロールしてるのは白人だ。俺たちがどうやって差別できんだ? 奴らが良い仕事につけないように、俺たちが裏で操作してるとでも言うのか? 俺たちは、これまで受けた扱いに対して怒ってるだけなんだ。もううんざりだからな」
「俺たちだけのものがあることを、白人は嫌うんだ。ラップは俺たちのものだ。白人は、“ちょっと待て。お前たちだけで話合うんじゃない。俺たち白人を嫌うことに全神経を集中させろ”って思うんだ。なぜなら、奴らを嫌っているかぎり、向こうのほうが一枚上手だ。白人が皆悪人だと思わない。ただ、無知なだけだと思う」
アビー・ホフマン、ジェリー・ルービン、あるいはマルコムXといった活動家たちと同じく、キューブは先陣に立ち、マイクを持って主義主張を堂々と言い放つ。支持を集めようとする政治家ではなく、現実を伝えるレポーターだ。200年間、ヨーロッパ的思想が中心になっていたアメリカに変化が訪れている。白人は自身にとって不都合なことを語ろうとせず、キューブのような“ニガには目を背ける”傾向があるが、キューブは白人たちに警告を送っている。国勢調査の予測によると、2056年にはアフリカ系、アジア系、ヒスパニック系、太平洋諸島系、そしてアラブ系の血筋を引く人々が、アメリカ人口の大多数になるとされている。そして民主主義の国では、大多数が勝つのだ。
アイス・キューブの故郷、サウス・セントラル
夜に包まれたサウス・セントラル。小綺麗なレンガ造りのバンガローから、ぼんやりと明かりが漏れていた。家のなかには、チャーチ・ドレスを着た女性。その目つき、眉毛、頬骨、鼻。アイス・キューブの母親、ドリス・ジャクソンである。
サウスカロライナ州はコロンビア出身のドリスと、ルイジアナ州はチャタム出身の夫、ホセアは、より良い生活を求めて西海岸に移り、出会った。結婚をしたときは、ホセアはロサンゼルスのダウンタウンで機械工として働いていたが、その後UCLAで管理人の仕事に就き、ドリスはUCLAの大学病院で受付の仕事をしていた。オシェイ・ジャクソンは、ふたりにとって4人目の子供、ふたり目の男の子であり、名前は母親のお気に入りのフットボール選手、O.J.シンプソンにちなんでつけられた。
小学3年生までHawthorne Christian Schoolに通っていたが、制服を嫌った彼は学校を移ることを希望した。キリスト教青年会でバスケットボールをし、Pop Warner Leagueでフットボールをやった。成績はまずまずであった。「とても良い生徒だったわ」と、彼の母親は言う。「修学旅行なんかに行くたびに、先生はみんな良い生徒だと褒めていたわ」
キューブが育った家は、サウス・セントラルの西側、イングルウッドに近い場所にあった。1965年に、飲酒運転をした黒人が白人警官に逮捕され、暴動に発展した歴史的な場所、ワッツからもそれほど遠くない。しかし、人種問題以外に、サウス・セントラルに住む人々はギャングとドラッグ問題に悩まされてきた。アメリカ全土に9万人いるといわれるギャング・メンバーのうち、半分以上がこの地で暮らしている。しかし街としては良い場所だ。丘には大きな家が佇み、ショッピング・センターもあり、カリフォルニアらしく低い建物中心の町並みが広がる。貧困に苦しむ家庭であっても、庭にはヤシの木や花が植えられている。ブロンクスだとか、ノース・フィラデルフィアと比較したら、サウス・セントラルにはのどかな田舎町の風情がある。
10代前半になると、オシェイはたまに喧嘩をし、数台自動車を盗む程度のヤンチャっぷりを見せたが、ギャングスタと呼ぶには程遠かった。「そんなことやっていてカネが手に入るとは思わなかった」とキューブは言う。「俺はたいていジンクスの家にいて、音楽をやってたね」
オシェイは中学3年生のとき、パソコンの授業中に初めてライムを書いた。そしてジンクスに聴かせ、彼らは一緒にテープを作ることにした。「クソだったよ」とキューブは言う。「ラップは酷かったね。リリックはまぁ良かったと思うけど、特別すごいものではなかった。まぁ、まだ15歳だったからな」
キューブはその後もラップを続け、Skate Land USAやホームパーティーでライブをやり、Hollywood Palladiumでのラップバトルで決勝戦まで残った。1986年、ジンクスのいとこであるドクター・ドレーの紹介で、彼はイージーEと知り合った。ドラッグ・ディーリングで儲けたカネで自身のレーベルRuthless Recordsを立ち上げていたイージーは、H.B.O.という所属グループのためにリリックを書いてくれと、キューブに頼んだ。
ドレーとキューブは一緒に音楽制作をやることになった。それまでのRuthlessの作品は売れていなく、なにか新しいもの、新しいスタイルが必要だと言われた。「それで俺たちは、汚い言葉をふんだんに使った曲をやろうと思ったんだ」とキューブは言う。こうして、コンプトンについて綴った曲、「Boyz-n-the-Hood」が誕生した。だが、ニューヨークのグループであったH.B.O.はこの曲がカリフォルニアすぎると感じ、レコーディングすることを拒否した。「するとドレーがこう言ったんだ。“よぉ、イージー! お前がやったらどうだ?”」と、キューブが言う。
「Boyz-n-the-Hood」はイージーの曲としてリリースされ、それから彼とキューブ、ドレーらでN.W.Aが結成された。大半の曲はキューブが作詞し、ラップも自分のパートをやった。彼らの出す曲はことごとく売れ、なにか大きな発見をしたと彼らは確信した。未来は明るかった。キューブはスターへの階段を登っていたのだ。
ところが、母親が彼を現実に引き戻した。「ちょっと待ちなさい、オシェイ。ちゃんと学校を卒業してからよ」
ドリス・ジャクソンはラップに対して否定的ではなかった。キューブが「Dopeman」という曲を母親に聴かせたことがあり、彼女はそれをいたく気に入った。息子が曲を作り、それをテープに録音しているのだ、母親として嬉しくないわけがない。しかし、そのときキューブが聴かせたのは悪い言葉を消したクリーン・バージョンであったという事実を、キューブは伝えていなかった。彼女は同僚のパーティーでダーティー・バージョンを聴いてしまった。
「ドリス、あの酷い言葉で歌ってる曲、あれあなたの息子じゃない?」
「まぁ、なんてこと」と、彼女は驚いた。
ジャクソン家では、家のなかで汚い言葉を使うことは禁止であった。「私はこう言ったの。“そんなに悪い言葉使わないといけないの?”するとオシェイはこう答えた。“若者はこういう音楽を好むんだよ”」
「ラップは悪いものだとは思わないわ」と、4人の子供達(管理人、看護師助手、母親、そしてラップスター)を育てたドリスは言う。「でも私はこう思う。子供は家の外で色々なことを学ぶわ。でも家のなかでも学ぶことは多い。どんなに頑張って育てても、彼らには彼らの考えがある。外には過酷な現実があるわ。親としてできることは、なるべく多くの大切なことを教えること。彼らは以外とたくさん、覚えているものよ」
こうして、キューブのラップ活動は一時的に休止になってしまった。彼は18歳の誕生日に両親に買ってもらったフォルクスワーゲンのビートルに乗り、製図のコースを1年受講するため、技術系の専門学校Phoenix Institute of Technologyに向かった。

レーベル/マネジメント会社、Street Knowledge Productionsを立ち上げたアイス・キューブ
カリフォルニア州、サウス・ロサンゼルスのStreet Knowledge Productionsのオフィスにて。副社長パット・シャーボネットが社長のアイス・キューブと会社の立ち上げについて会議していた。窓の外では、3人のメキシコ系の女性が古いシボレーを押して、キューブの新しい黒のホンダ・アコードのとなりを通り過ぎた。「ベンツなんていらない、アコードで十分だ」とキューブは言った。「たった2万ドルだからな」。キューブはあまりお金を使いたがらない。毎月、自分が使える小遣いは1,500ドルまでと決めている。彼は自分で家賃、光熱費や電話代などを計算し、払っている。彼のマネージャーでもあるパットには10%支払っている。業界の平均は15%だが、お金を稼いでいるのはキューブであり、彼が公平だと思った額をスタッフに支給している。
Street Knowledge Productionsはまだ出来たばかりだ。オフィスはまだ片付いていない。パットの母親が手伝いに来ており、電話対応をしている。パットはデスクに向かっており、となりにキューブが立っている。ふたりともペンを握っている。
「ファックスは必要だわ。あと、椅子が欲しい」と、パットが言う。「そうなると、あとこれだけ費用がかかりそうね…」彼女は4桁の数字を書いた。
「それぐらいなら問題ない」と、キューブが答えた。
「あと、ほかに払わなきゃいけない人いる? ジンクスは大丈夫?」
パットは30代のアフリカン・アメリカンであり、白人のユダヤ系イギリス人の血筋も引く。黒のレザーパンツに、ヒョウ柄のハーフブーツを履いている。ニューヨーク出身の彼女はPace Universityに通い、大学卒業後はバハマに暮らしたあと、ロサンゼルスに移った。1985年、CBS Recordsのナショナル・コンベンションでは年間ベスト広報に選ばれた。
その賞を受け取ったあと、パットは業界を離れた。彼女は子供を産み、旦那のマイクが父親の仕事を継ぐのを手伝った。マイクの父親は火災保険の契約人として仕事を始めたが、現在はコンプトンでショッピング・モールを経営している。マイクはサーファーだ。最近、彼が仲間たちとラグナ・ビーチで遊んでいたところ、「ニガーは帰れ」と白人グループに罵られたと言う。
パットは去年業界に戻っており、Priority Recordsに就職し、N.W.Aや他のラップ・アクトを担当した。彼女に言わせると、キューブとの仕事はただ音楽を宣伝しているだけではない。「彼がやっていることはとても政治的、もしかしたら歴史的とさえ言えるかも」と彼女は言う。
「いつの時代にも、キューブのような人はいる。人は彼を反逆者、急進派と呼ぶかもしれない。でも本当は、彼はただ時代の声を代弁しているだけなのよ。私が子供のころから憧れてきたマーティン・ルーサー・キング、マルコムX、ストークリー・カーマイケル、ラップ・ブラウンといった活動家たちは、今時のキッズにとってはリアルじゃないのよ。彼らはブラック・パワーなんてわからない。毎年、ブラック・ヒストリー・マンス(註:黒人歴史月間、米国では2月)では、あのピーナッツの人、ジョージ・ワシントン・カーヴァー(註:ピーナッツや他の作物の何百もの用途を開発した黒人の植物学者)とか、そのぐらいしか学ばないわ」
「今時の若者は無関心すぎるとよく言われる。彼らが興味を持ってるのはドラッグとカネだけだと。私は同意しないわ。彼らはちゃんと世の中を見ていると思う。黒人は、白人文化のことを全て知っておくべきだと教わる。でも白人がわかっていないのは、フッドでは白人社会で起きていることなんてどうでもいいの。それは向こうの世界。現実はこっちにある。黒人はラップを通じてお互いにコミュニケーションしているのよ」
そして、ラップを通じてビジネスもしている。
「クレジットカード、手配してくれよ」と、キューブが言う。
「だから、今度アールに会いに行くのよ」とパットがいう。「あなたからアールへ一括払いをしてもらいたかったのよ」
「わかった。さっさとカードが欲しいんだ」と、キューブが言う。
「アールに明日会えるか聞いてみるわ」と、パットが話す。「こういう人たちは権力があるから…」
「限度額5ドルとか、嫌だからな」と、キューブ。
「心配しないで」と、パット。「あと、聞きたかったんだけど…」
「ちくしょう」と、キューブ。「もう、ただファンキーなビートとライムを作ればいいわけじゃないんだな?」

ダ・レンチ・モブのミーティング。夕方、キューブの自宅にて。キューブ、Tボーン、ジンクス、チルとヨーヨーがダイニング・ルームのガラスのテーブルを囲んでいた。キューブが“ただの知り合い”と言う女の子が、キューブの新しいアパートのために家具や食べ物を買ってきていた。ソファ、デスク、イタリア調のコーヒー・テーブル、全てが黒だ。ペン立ても真っ黒であった。
ミーティングはヨーヨーのアルバムについてであった。キューブは彼女のためにAtlanticの契約をゲットしており、もうすぐ制作を開始することになっていた。「11曲にしよう」と、キューブ。
「曲名、全部書いたほうがいい?」と、ヨーヨーが聞いた。
「ああ」と、ラズベリー味の水を飲みながらキューブは答えた。
「オッケー」と、ヨーヨーは言い、曲名を書きだした。「まず、“Sisterland”でしょ。それから“Enuf Is Enuf”、“Who Needs a Man”…」
キューブは疲れている様子だ。考えなくてはいけないことが山ほどあるのだ。ツアーをやっているときは楽しいことしかない。バスでの移動、ホテルの宿泊、女の子。しかし家にいるときは、つねに仕事モードなのである。常に明日のことを考えている。ミュージックビデオのこと、ヨーヨーのアルバムのこと、現在建設中のStreet Knowledge Productionsのレコーディング・スタジオのこと。ダ・レンチ・モブのTシャツ、ツアー、税金。たくさんのこと。アコードに電話を取り付ける必要がある。アパートのために家具を買わないと。あまりに多くのことが、短期間で起きていた。
「才能がないやつに嫉妬なんてするもんか。奴にあるのはカネだけだ。俺はカネも才能もあるやつになる」 ―アイス・キューブ
N.W.A『Straight Outta Compton』のヒット、そしてグループ脱退
キューブは、Phoenix Institute of Technologyを1988年に卒業した。彼が戻ると、N.W.Aはさっそく制作を再開した。まずイージーのアルバムを作り、それからN.W.Aのアルバムを完成させた。
しかしキューブがそのとき理解していなかったのは、N.W.Aとは正式に契約していなかったという事実だ。たしかに、何らかの契約書にはサインしていた。レコーディングをしているときは、毎日何かしらサインすべき書類が差し出された。しかしその内容が何だったのか彼はちゃんと把握していなかった。そんなことは誰も気にしていなかった。「みんな貧乏だったんだ。もしこれをサインしたらカネがもらえるって聞いたら、迷わずサインしちゃうだろ」と、キューブが説明する。「俺はとにかく早く音楽作りに戻りたかった。1年も離れていたからな。あと、ようやく帰ってきたんだから面倒は起こしたくなかった」
『Straight Outta Compton』は1989年2月に発売し、大ヒットした。50都市を巡る全国ツアーを開始したころには75万枚の売上げを記録しており、メディアも注目し始めていた。N.W.Aのヒット・ソングは「Fuck tha Police」。ラジオでは放送されず、ビデオもなかったが、なぜか多くの人が同曲のことを知っていた。
グループ内に軋轢が生じたのは、ツアーの途中、アリゾナ州フェニックスに滞在したときであった。グループのマネージャーを務めていたジェリー・ヘラーは、業界のベテランであり、70年代にはエルトン・ジョン、ピンク・フロイド、ジャーニー、ゲス・フーといったバンドの成功に携わった人物である。この記事のためにインタビューを試みたところ、拒否され、N.W.Aのメンバーへのインタビューも断られた。
フェニックスで、ヘラーはメンバーそれぞれに契約書と7万5,000ドルの小切手を差し出した。「“もし契約書にサインしたら小切手をやる”と言われたんだ」と、キューブは思い出す。「俺はそのときパットに相談していて、パブリッシングとかロイヤリティーとか、イージーのアルバムでいくらもらったかとか、色々聞かれたんだが答えられなかった。自分がアホだと思ったよ、何もわかってなかった。
「それでヘラーに契約書を差し出されて、俺は“弁護士にまず見せたい”と言った。奴は椅子をひっくり返すぐらいビックリしてやがった。きっと、“この若造、なんでカネに目がくらまないんだ?”って思ったんじゃねぇの? “他のメンバーはもうサインしているぞ”と言われた。俺は、“とにかく問題がないかどうかだけ確かめたいんだ”と言った。すると奴は“おいおい、7万5,000ドルだぜ! どんな問題があるっていうんだ!”と言った」
キューブは会計士と弁護士を雇った。ツアーの総利益は65万ドルであり、ヘラーは13万ドルを手にし、キューブは2万3,000ドルしかもらっていなかったことが発覚した。1989年の秋には、N.W.Aの2枚のアルバムの売上は300万枚に達していた。その2枚のアルバムの曲の半分は、キューブが作詞したか、共同作詞したものであった。彼が受け取ったギャラは3万2,000ドルであった。
弁護士がキューブの契約書を提出することをヘラーに要求した。何度も電話をし、キューブの母親までもが電話をし、ようやくヘラーは同意した。しかし彼が提出した契約書には1点、問題があった。「あの馬鹿、俺にサインさせるのを忘れていやがったんだ!」
キューブの弁護士がヘラーと交渉し、賠償金を払うことで決着した。キューブは、N.W.Aの他のメンバーに対して何もわだかまりはなく、本当はグループに残りたかったと言った。しかしこの一件があった以上、ヘラーの下で働くことは不可能だと感じたのだ。ヘラーは、アイス・キューブが抜けた理由は別にあったと考えているようだ。「アイス・キューブがN.W.Aを抜けた本当の理由は、イージーEの富と名声に嫉妬したからだ」と、ヘラーは言った。「才能がないやつに嫉妬なんてするもんか」と、キューブは返答した。「奴にあるのはカネだけだ。俺はカネも才能もあるやつになる」
アイス・キューブも自身のレコード・レーベル、Street Knowledgeを立ち上げた。現在、キューブは自身の貯金をStreet Knowledgeに投資しており、利子なしで徐々にそのお金が彼のところに返済されることになっている。Street Knowledgeが軌道に乗ったら色々なものに投資したいと彼は言う。「共同住宅とか、ショッピング・センターとかをやりたい。色々なことをやってみたいね。ずっとラップするつもりはないんだ。せいぜい25歳ぐらいまでかなって考えている。25歳からは墓場に行くまで安心できるようにしておく。俺は好きなだけ旅行して、頭が痛くなるようなことは人を雇って、やってもらう。今は自分でビジネスを全てやらないといけない。毎日やらなくてはいけないことをこなしている。そうすれば明日、そのことを心配する必要はないからな。俺の面倒を見るのは、俺が一番得意だ。母ちゃんよりもな」

ラップ・グループ、アバヴ・ザ・ロウとのビーフ
土曜の夜。右の車線で80mph(時速約129キロ)のスピードを出し、キューブはアナハイムに向かっている。Tボーンは助手席、Jディーは後ろの車。ラップ・ショウに向かっていた。
雲行きが怪しくなったのは昨日からであった。Los Angeles Times紙の記者が、新しいラップ・グループ、アバヴ・ザ・ロウをインタビューした。Ruthless所属であり、ジェリー・ヘラーが手がけているこのグループは、郊外のポモナ出身だが、サウス・セントラルのラップ・クラブによく足を運んでいた。グループのリーダーはコールド187um。彼のDJはゴー・マック。彼らの1stアルバム、『Livin’ Like Hustlers』は1週間で14万枚売れ、シングル「Murder Rap」は発売してから1ヶ月経った時点でBillboardのラップ・チャートの2位を獲得していた。
記者はアバヴ・ザ・ロウをインタビューし、その後キューブからもコメントをもらっていた。今朝のLos Angeles Times、8ページ目より。
ゴー・マック:「アイス・キューブをどう思うか? 奴は、経験してないことについてどうやって歌詞を書いてんだろうね? アイス・キューブは良いトコの育ちだ。母ちゃんも父ちゃんもいて、良い学校にバスで通ってた。奴が知っていた本当のワルなんて、俺らぐらいだ。だから奴の歌詞は、俺らのことを書いてる。N.W.Aでラップしてることなんて、奴はただ歌詞を書いていただけだが、俺らにとっては日々経験してる現実なんだ」
アイス・キューブ:「ポモナ出身のぽっと出どもは、高速10号線の話でもしてりゃいいんだよ」
この記事を読んだアイス・キューブが、イライラしたのかどうかは定かではなかった。彼の表情が変わることは稀だ。しかし彼はそのことを相談しに、トーン・ロックの家を訪ねていた。彼はトーンと、アイスTにたまに会いに行く。「彼らは歳上だから知らないことを教えてくれる」とキューブは言う。もしLos Angeles Timesの記者がゴー・マックに「アイス・キューブをどう思うか?」と質問していなかったら、そしてそのことについてアイス・キューブにリアクションを求めていなかったら、このことが表面化することはなかっただろう。しかし今ではフッドでディスが飛び交っており、穏やかではない状況になっているため、キューブは先輩にアドバイスを求めることにしたのだ。ジェリー・ヘラーがろくでもないことを言い聞かせて洗脳しているのだろう、というのがキューブの見解だ。キューブ本人は、N.W.Aのメンバーにも、その取り巻きにもまったく悪意はないのだと言う。「それなのに、このぽっと出たちは偉そうな口ききやがって、何様のつもりだ?」
アバヴ・ザ・ロウのマネージャー、レイロウがたまたまトーン・ロックの家にいた。彼はキューブと古くから付き合いがあり、N.W.Aの取り巻きの一員でもある。キューブとレイロウはバスケットボールをし、それから少し話をした。「よぉ、お前んとこの奴らがナメた口きいてたじゃねぇか。面と向かって言えってんだ」
「今度のライブのとき、楽屋に来いよ」と、レイロウはいった。
そしてライブ当日、キューブは会場のCelebrity Theaterに到着した。今夜のライブにはアバヴ・ザ・ロウ、ロウ・プロファイル、コンプトンズ・モスト・ウォンテッドといったグループが出演する。そしてアバヴ・ザ・ロウのライブに現在のN.W.Aのメンバーが数曲ゲスト参加する予定だ。
キューブはヨーヨー、チル、デル、ジンクスらクルーのためのチケットを購入した。今夜のアナハイムには、自身のクルーがいてほしいとアイス・キューブは感じたのだ。
そしてキューブはバックステージ・パスを受け取り、セキュリティを通って舞台裏へと進んだ。Tボーンも一緒だ。Jディーは通らせてもらえず、他の運の悪かった人たちと一緒に待機だ。セキュリティの男は「ダ・レンチ・モブなど知らん」の一点張りであった。
舞台裏にはたくさんの人がいた。様々なクルーの男、タイトドレスを着た女の子、ミシェレもいた。白人の女たちを連れるふたりのギャングスタ。もうひとりのギャングスタがビデオカメラをもって廊下でコソコソしていた。ここにいる者達はみんな態度がデカい。あちこちで喧嘩が勃発し、誰かが誰かを必死に止めている。するとセキュリティがあいだに入り、鎮火する。悪さをする奴らは放り出されるが、すぐに戻ってくる。仲良く笑っていると思ったら、次の瞬間には臨戦態勢に入る。みんな、喧嘩っ早い。みんな、楽しんでいる。
キューブはJディーのためのバックステージ・パスをTボーンに探しに行かせた。すると、新聞でアイス・キューブのことをディスっていたゴー・マックが視界に入った。
「よぉ、調子どう?」と、キューブが話しかけた。
「なんだ、俺に言いたいことでもあるのか?」と、ゴー・マックが返事した。
突然、辺りが静まり返った。皆の視線がキューブに集まる。
「ああ」と、キューブは言う。「楽屋に行って1対1で話そうぜ」
フッドでは、敵陣地にひとりで行くことは自殺行為だ。もし喧嘩しに行くなら、クルーを連れて行く。もし喧嘩をする気はなくても、少しでも何かがおっ始まる可能性があるなら、クルーを連れて行く。しかしこのとき、キューブはひとりであった。Jディーは外だ。TボーンはJディーを中に入れる方法を探していた。他のダ・レンチ・モブの面々もまだ舞台裏に入る手段を見つけていない。キューブはひとりで楽屋に入った。ドアが閉まった。
まずはコールド187umが最初のパンチを繰り出した。顔面にクリーンヒットだ。ゴー・マックが前から跳びかかり、他のメンバーが彼を後方から襲撃する。キューブは拳の嵐を避けようと腕を振り、回転し、なんとかその場から脱出しようともがいた。手足を振り回し、ドアを蹴破り、廊下に消えた。
その晩、キューブは劇場の後方の席に座った。Tボーン、Jディー、ジンクス、デル、チルらがキューブを囲んで、2列を陣取った。2,500人ほどのキャパの劇場に、500人ほどの観客が来ていた。キューブはアバヴ・ザ・ロウのライブをその目で見届けようと決めていた。
彼は座って、アバヴ・ザ・ロウが数曲やるのを見ていた。彼の元チームメイトのMCレンやドレーが登場し、数曲やるのも見ていた。彼らはステージの端から端まで動き、客を盛り上げた。ファンは大声を出している。
するとアバヴ・ザ・ロウのナンバー2ヒット、「Murder Rap」の冒頭のサイレン音が鳴り響き、観客は狂喜乱舞する。キューブは立ち上がり、劇場を去ろうとした。彼のクルーも立ち上がる。
キューブは立ち止まり、席が半分も埋まっていない劇場を見渡し、ステージ前に集まって盛り上がっているファンを眺めた。彼の唇が切れている。皮膚の一部がごっそり剥がれていた。目は充血し、ニット帽はななめになっており、シャツのボタンがひとつとれていた。もうすぐリリースされる自身のアルバムについて考え、もうすぐスタートするツアーのことを思った。Street Knowledgeについて、パットについて、ヨーヨーについて、デルについて思考を巡らせた。46歳でプラチナ認定されたアルバムを14枚持っている自分を想像し、共同住宅やショッピング・センターを経営している自分のイメージを膨らませた。成功を力づくで手に入れている自分を思い描いた。きっと戻ってくる。そしてこの劇場を満席にする。それは、約束だ。
「てめぇら全員、クソ喰らえだ!」と、キューブは言った。
Words by Mike Sager
Mike Sager
マイク・セイガーは『Washington Post』、『Rolling Stone』、『Esquire』などで長年記者・編集者として活躍してきたライター。2007年に出版した著書『Revenge of the Donut Boys』には、1990年に執筆された同記事に加え、様々な音楽家や俳優など著名人の人生を鮮明に描いた記事が集められている。
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