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ディスコとは?一世を風靡したジャンルを徹底解説

Crown Cord by Crown Cord
2019年12月5日
in Feature
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ディスコとは?一世を風靡したジャンルを徹底解説

Contents

  • 1 ディスコ概論: そもそもディスコとは何なのか?
  • 2 ディスコとは日常から解放されるミュージック
  • 3 ソウルの伝統を継ぐ、ディスコミュージック
  • 4 ニューヨークで登場した伝説のディスコクラブDJ
  • 5 ディスコ時代を切り開いたふたつのレーベル
  • 6 Salsoulの台頭
  • 7 力強く生き残ったソウルフルなR&Bディスコ
    • 7.1 発展していくディスコ文化

ディスコ概論: そもそもディスコとは何なのか?

ディスコほどイメージがわきやすく、定義しがたい音楽もないかもしれない。これほど人々を熱狂させ、ゴミのように扱われた音楽もないだろう。ディスコは、それを享受する者の音楽観や体験、世代によって趣を変える。けれど、ソウル/ファンクを基盤としたダンス・ミュージックという共通認識は皆の間にあるのではないだろうか。

70年代中〜後期に流行したディスコは、その後、旧時代の遺物として葬り去られながらも事あるごとにリヴァイヴァル・ブームを巻き起こし、現在も日本のJ-Popを含む世界の大衆音楽に組み込まれ、生き延びている。特にダフト・パンクがナイル・ロジャースとファレル・ウィリアムズをフィーチャーした「Get Lucky」(2013年)で臆面なくディスコ回帰を試みてからの流れは、ディスコをキッチュなものとしてではなくヒップなものとして再認識させ、何となく抱かれていたネガティヴなイメージを払拭してみせた。

四つ打ちのビートにファンキーなベースラインやパーカッションが絡むダンス・ミュージック。ディスコの音楽的特徴を端的に言い表せばそうなるが、ディスコと言われて多くの人がイメージするのは、77年に全米公開されたジョン・トラボルタ主演の青春映画『Saturday Night Fever』および同劇中で流れる楽曲(の多くを収めたサウンドトラック)だろう。

Saturday-Night-Fever

ディスコとは日常から解放されるミュージック

 バリー・ギブのファルセットが冴えわたるビー・ジーズの「Stayin’ Alive」や「Night Fever」、マイアミの TKを代表したKC&ザ・サンシャイン・バンドの「Boogie Shoes」、フィラデルフィア・ソウルの屋台骨を支えたMFSBによるナイト・ライターズ曲カヴァー「K-Jee」やトランプスの「Disco Inferno」、米東海岸のファンクを代表したクール&ザ・ギャングの「Open Sesame」など、これらを含むサントラはビルボードのアルバム・チャートで24週連続1位となり、映画同様に大ヒット。

映画の表題通りサタデー・ナイト(土曜の夜)にフィーヴァーし、ドナ・サマーがゲスト出演した78年公開の青春映画『Thank God It’s Friday』のタイトルよろしく金曜(の夜)を彩るものとしてディスコは市民権を得た。つまりディスコとは日常から解放される週末のイヴェントであり、そこでかかる享楽的な音楽をディスコ・ミュージックと呼んだ。

とはいえ、『Saturday Night Fever』が伝えるディスコは、それが“成れの果て”と考える向きもあった。特にディスコをR&Bの発展形態だと考えていた人たちからは、そのクロスオーヴァーぶりやブラック・コミュニティから一線を置いた(白人的な)上昇志向に対して非難が集まったとも言う。かのネルソン・ジョージも自著『リズム&ブルースの死』で、「R&Bをそのルーツから切り離し(中略)R&Bの崩壊に手を貸した外的な力…それがディスコだった」「76年から80年のあいだにふたつの音楽的な力が作用して、ディスコを非ファンク化し、心のこもらない繰り返しの演奏の白痴的な歌詞のサウンドに変えた」と、「いくつかの例外もあったが」としながらR&Bがセルアウトしていく様子を嘆いている。

日本の黒人音楽評論においても、ディスコ・ブームをソウル・ミュージックから魂を奪った諸悪の根源と捉えるような言説は最近まであった。それは現在におけるEDM批判に似ているかもしれない。

Vinyl

ソウルの伝統を継ぐ、ディスコミュージック

 ネルソン・ジョージが同著で「71年から75年までに登場したディスコ・サウンドの初期の先例」として挙げているのは、クール&ザ・ギャング「Funky Stuff」「Hollywood Swinging」、オハイオ・プレイヤーズ「Skin Tight」「Fire」、エディ・ケンドリックス「Boogie Down」「Keep On Truckin’」、ジョージ・マックレー「Rock Your Baby」、グウェン・マクッレー「Rockin’ Chair」、KC&ザ・サンシャイン・バンド「Get Down Tonight」「Shake Your Booty」、BTエクスプレス「Express」「Do It (‘Til You’re Satisfied)」、ブラス・コンストラクション「Changin’」で、これらをMotownやスライ&ザ・ファミリー・ストーンなどをルーツとする、R&Bの伝統を引き継ぐディスコ曲と紹介している。

むろん、この時期に大躍進を遂げたフィラデルフィア・ソウル(オージェイズ他)や、コモドアーズ「The Bump」、ヴァン・マッコイ&ザ・ソウル・シティ・シンフォニー「The Hustle」、ファットバック・バンド「(Are You Ready)Do The Bus Stop」、シルヴァーズ「Boogie Fever」といった当時流行のダンスの名前を冠した曲も入ってくるだろう。

 実際に踊り場としての名称も含めたディスコという概念が定まったのは上記のような曲がヒットした時期だ。その“元年”は、Billboard誌がディスコ・チャートをスタートさせた74年(10月26日)とする説もあるし、音楽ジャーナリストのヴィンス・アレッティがRolling Stone誌の73年9月13日付けの記事でディスコティーク(Discotheque)という言葉を用いてそのムーヴメントを紹介したのが最初と言われたりもする。

ヴィンスはその後、74〜78年まで音楽業界誌のRecord Worldでディスコのコラムを担当。それらの一部は、2009年に発刊された「The Disco Files 1973〜78〜New York Underground Week by Week」で読むことができるが、そこには件のRolling Stone誌の記事も収録。それを見ると、オージェイズやアース・ウィンド&ファイア(EW&F)などのレコードに次ぐものとして、踊り場からはすぐに姿を消したがムーヴメントの礎となったエポックメイキングなアルバムを9枚ピックアップしている。JB’s『Doing It To Death』、マンドリル『Composite Truth』、バーラバス『Barrabas』、ザ・エヴリデイ・ピープル『The Everyday People』、ファットバック・バンド『Let’s Do It Again』、ウィリー・ハッチ『The Mack』、サイマンデ『Cymande』および『Second Time Around』、オシビサ『Woyaya』がそれで、71〜73年の間に発表されたこれらは現在レア・グルーヴの名盤として紹介されているものばかりだが、アフロ・ファンクやラテン・ファンクを含むこうしたアーシーなソウルがディスコの出発点と考えられていたのだ。

Vinyl2

ニューヨークで登場した伝説のディスコクラブDJ

そんな初期ディスコ・ムーヴメントの立役者として70年代前半のNYでシーンを盛り上げたのが、会員制のダンス・パーティThe Loftを主宰したデヴィッド・マンキューソや、伝説のクラブThe Galleryの創設者でDJのニッキー・シアーノといった人物だった。今ではアフロ・ファンクの名曲として多くの人が知るマヌ・ディバンゴの「Soul Makossa」(1972年)がビルボードのヒット・チャートに入るキッカケを作ったのも、ニッキーがジャマイカ系の音楽を扱うレコード店で購入してクラブでかけてからだと映画『The Secret Disco Revolution』(2011年)で本人が語っているが、マンキューソにも同様のエピソードがあるように、ほぼ同時に同業者が買いに走ったのだろう。

ニッキーはまた、バリー・ホワイトが制作したラヴ・アンリミテッド(のヴォーカル版)「Love’s Theme」も20th Centuryの親企業である映画会社でゴミのように扱われていたところを拾い上げ、The Galleryでかけたという。こうしたアンダーグラウンドでの地道な動きが実を結び、ラジオ局より先にヒットを生み出す現場としてディスコに日が当たり、レコード会社もそれに注目し始めたのだ。

 ディスコのルーツを大昔まで遡れば、その始まりも“アンダーグラウンド”なもので、1940年代、ナチス占領下のフランスにおいてバンドの生演奏で客を踊らせる場所が禁止となり、秘密裏の踊り場(ディスコティーク)でレコードをプレイしたのが原点だったと言われている。そうして主催者はバンドを雇わないため経費削減、客も客でコンサートに行くより安上がりで気楽ということになり、結果的に身分や収入に関係なくあらゆる人の解放の場となり、それはマイノリティだった黒人やラティーノ、ゲイたちの集いの場として発展していく。ゲイに関しては、69年に起こったストーンウォールの反乱(同性愛迫害に対する抵抗・解放運動)もゲイ・ディスコを多発させるキッカケとなったことはよく指摘されるが、事実、マンキューソやニッキーもゲイだった。

NICKY-SIANO
ニッキー・シアーノ
David-Mancuso
デヴィッド・マンキューソ

ディスコ時代を切り開いたふたつのレーベル

そんなディスコ黎明期に、時代の空気を察知したかのように、ふたつのレーベルが産声を上げている。73年にニール・ボガートが中心となって設立したCasablanca、そして74年にケイル3兄弟によって設立されたSalsoulだ。社員のコーヒー・ブレイク時にはコカインも一緒に配られていたという破天荒なエピソードもあるCasablancaは、当時のディスコ愛好家たちに“レーベル買い”をさせるほど影響力があったという。その看板となったのがドナ・サマー。後にグロリア・ゲイナーと並んで“クイーン・オブ・ディスコ”と称されることになるドナは、ミュージカル『Hair』のドイツ公演版キャストとしてミュンヘンに出向き、そこでジョルジオ・モロダーと出会う。

ジョルジオ主宰のOasisと契約を結んだ彼女は75年にシングルを発表するが、全く話題にならなかった5分ほどの曲をボガートが「20分に引き延ばせ」と言ってアルバムに収め、逆輸入的な形で全米に売り出したのが、後にビヨンセのサンプリングで再評価される「Love To Love You Baby」だった。17分間オーガズムが延々と続くようなそれは、男だけが満足する3分間セックスへの批判としてジックリと愛を交わす様を描いた、いわば女性(の性の)解放の歌となったのだった。これがディスコ時代における女性シンガーの一種のロールモデルとなり、同じくモロダーのOasisを経てCasablancaから全米に紹介されたロバータ・ケリーをはじめ、グレイス・ジョーンズ、ヴィッキー・スー・ロビンソン、そしてMotownでもダイアナ・ロスやテルマ・ヒューストンが似たような道を歩み始めている。

 ジョルジオ・モロダーとピート・ベロッテが制作したドナの「Hot Stuff」(1979年)に象徴される、執拗なシーケンス・ベースラインが特長となる激しくダンサブルな楽曲はミュンヘン・ディスコと呼ばれて世界のディスコ・シーンを席巻。後のユーロ・ビート〜ハイ・エナジー(Hi-NRG)の源流となったそれは、「ディスコが機械的な音楽に成り下がった」という批判を生む一方で、リズムのセンスのない人間も踊らせることができたという意味で開かれた音楽だった。

また、シンセサイザーやドラム・マシーンを用いて曲を作るという、当時としては独創的だったモロダーの手法は、大勢のミュージシャンを雇えない音楽制作者に夢と希望を与えたという意味で、これまた新たな扉を開いた。モロダーのシンセ・ディスコはゲイの聖地サンフランシスコで気を吐いたシルヴェスターにも確実に影響を与えたし、同じユーロ・ディスコのカリスマとして人気を二分したフランスのセローン、チェンジやBBQバンドのプロデュースでNYサウンドのシーンに参入したイタリアのフレッド・ペトラス&マウロ・マラヴァシらの活躍も、モロダー人気とは無縁ではなかったはずだ。そして、リッチー・ファミリーのブレーンとして一度米国で成功を収めたフランスのプロデューサー、ジャック・モラーリが再び米国進出し、(ディスコが群雄割拠する)NYのグリニッジ・ヴィレッジに住む者は皆ゲイ(ではないか?)という発想で手掛けたのが、「Y.M.C.A.」(1978年)や「In The Navy」(1979年)などのヒットでドナと並ぶCasablancaの看板となったマッチョ集団のヴィレッジ・ピープルだった。

Vinyl3

Salsoulの台頭

 一方のSalsoulは、レーベル名がSalsa+Soulの造語であるようにラテン音楽の紹介に始まり、当初はジョー・バターンを送り出すなどしていたが、フィラデルフィア・ソウルの高揚感溢れる流麗なストリングスやシグマ・サウンド・スタジオの音響の良さ(当時最先端だった24トラック仕様のコンソールを駆使していた)にディスコとしての可能性を見出し、アール・ヤング(ドラム)、ロニー・ベイカー(ベース)、ノーマン・ハリス(ギター)といったMFSBの中核メンバーをゴッソリ引き抜いてサルソウル・オーケストラとして送り出す。ヴィブラフォン奏者のヴィンセント・モンタナJr.が指揮を執る同オーケストラは、その母体となったMFSBやバリー・ホワイト率いるラヴ・アンリミテッド・オーケストラに倣ってリーダー作を発表、「Salsoul Hustle」(1975年)などの名曲を生む。

加えて、Salsoulのハウス・バンドも務めた彼らはダブル・エクスポージャー、ロリータ・ハロウェイ、ファースト・チョイスらのバック演奏も担当。SAMのハウス・バンドを務めたジョン・デイヴィス率いるモンスター・オーケストラ(こちらもMFSBが母体)とともに美しくエレガントなグルーヴを持ったディスコ・オーケストラとしてフロアを熱くしていく。

 76年にダブル・エクスポージャーの「Ten Percent」を世界初の(商用)12インチ・シングルとして発表し、リミックスを施したフロア向きのロング・ヴァージョンを定着させたのもSalsoulの功績だろう。そこでリミックス職人として原曲の快感を数倍に高めたのが、トム・モールトンやウォルター・ギボンズ、シェップ・ペティボーンといった腕利きエンジニアたち。とりわけトム・モールトンのディスコ・ミックスは、Salsoulに限らずこの世界のブランドとなっていく。また、ゴスペリッシュな唱法で華やかなダンス・サウンドに立ち向かい、Salsoulの看板歌姫となったロリータ・ハロウェイは、インナー・ライフのメイン・ヴォーカリストとしてPreludeやSalsoulで活躍したジョセリン・ブラウンらとともにハウス(・ディーヴァ)の礎となった。ロリータ・ハロウェイが歌うサルソウル・オーケストラの「Run Away」(1977年)を本家のヴィンセント・モンタナJr.をフィーチャーしてリメイクしたマスターズ・アット・ワークのニューヨリカン・ソウルは、そうしたSalsoulの作法や美学をピュアに受け継いだ最右翼と言っていいだろう。

 ネルソン・ジョージに言わせると、ディスコがダメになった原因はフィリー・サウンドとユーロ・ディスコの流行にあるという。言い換えればSalsoulとCasablancaの台頭が原因ということになるが、確かに、滅法ゴージャスなサウンドにそれほど上手くもないシンガーが歌を乗せたレコードを量産したのも両レーベルに共通する特徴だ。

とはいえ、ジョルジオ・モロダーの右腕でもあったアイスランド出身のゾー・バルダーソンがトム・モールトンと組み、シグマ・サウンド・スタジオの女声コーラス隊=スウィートハーツ・オブ・シグマに歌わせたメトロポリスのSalsoul原盤作『The Greatest Show On Earth』(1978年)のようなミュンヘン・ディスコとフィリー・ソウルの合体とでも言うべき秀作があったことも忘れたくない。また、Salsoulはフィリー・ソウルを取り込むだけでなく、NYサウンドの発展にも貢献。初期ディスコの名曲を生んだBTエクスプレスやブラス・コンストラクションのブレーン、ランディ・ミュラーが手掛けたスカイは「First Time Around」(1979年)のようなスタイリッシュなダンス・ナンバーでディスコ・シーンに新たな風を吹き込んでいく。

Joey-Llanos

力強く生き残ったソウルフルなR&Bディスコ

奇才ケントン・ニックスの制作となるターナー・ガードナーの「Heartbeat」(1981年)を送り出したWest Endの創設者メル・シェレンは、当時ディスコは評論家たちによって3つに分類されていたと語っている。その3つとは、ヒット狙いのポップ・ディスコ、ジョルジオ・モロダーに代表されるユーロ・ディスコ、そして黒人音楽のルーツに忠実なR&Bディスコ。その中で、レア・グルーヴとしての再評価も含めて批評と鑑賞に耐えながら生き残ったのはR&Bディスコだろう。Salsoul、West End、Prelude、そしてパトリック・アダムスとピーター・ブラウンが興したP&Pなどは、有能なリミキサーの手も借りつつソウルフルなディスコ・レコードを矢継ぎ早にリリース。そして、そうしたR&Bディスコを流したのが、ヴィンス・アレッティいわく「75%くらいは黒人客だった」というParadise Garageだった。

上記レーベルで数々のリミックスを手掛けたラリー・レヴァンがレジデントDJとして活躍した同クラブは、ターンテーブルに乗せたレコードに魔法をかけてクラウドを熱狂させていく。一方、同時期にNYで誕生した巨大ディスコがStudio 54。ニッキー・シアーノもDJを務めたこちらは、アンディ・ウォーホルやライザ・ミネリが訪れるなどセレブの社交場となり、それゆえ客層を選び、コマーシャルな曲をかけることを強要した(ことに反発したニッキーは解雇された)ため、ある意味ではディスコの“解放”という理念に背いていた。

シックを結成したナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズが同店を訪れるも門前払いを食らい、「Aaaaaah, Fuck Off!」と叫んで(当初は)Studio 54に対するディス目的で作ったのが、かの「Le Freak」(1978年)だったというのはディスコ史における有名なトリビアだろう。

これらは映画『Saturday Night Fever』のヒットとほぼ同時に起こっていたことだ。この間にはビー・ジーズよろしく、ローリング・ストーンズやロッド・スチュアート、クイーンといった白人アーティストもディスコに挑戦。曲名にDisco、Boogieという言葉を使えば、それだけでレコードが売れたという。ジャクソンズ、ヒートウェイヴ、EW&F、GQ、テイスト・オブ・ハニーなど、この時期のR&B勢によるヒット曲(のタイトル)を思い浮かべてみてもそれは明らかだ。

が、そんなブームの真っ只中に起こったのが反ディスコ運動だった。79年7月、ラジオ局を解雇された白人DJの「Disco Sucks(ディスコ糞食らえ)」という掛け声のもと、シカゴの球場に集まった数万人を前に大量のディスコ・レコードを爆破するというもので、その根底には黒人や同性愛者に対しての嫌悪があった。しかし、Disco Sucksの舞台となったシカゴでは、ラリー・レヴァンと切磋琢磨していたフランキー・ナックルズがゲイ・クラブThe WarehouseでDJを務め、ハウス・ミュージック誕生のキッカケを作る。それは反ディスコ運動に対する逆襲だったのかもしれない。

Vinyl4

発展していくディスコ文化

 以降、ニュー・ウェイヴ、ヒップホップ、テクノなどとも結びつきながら多様化していくディスコ。そうした中、90年代前半にパリから登場し、フレンチ・ハウス〜エレクトロの旗手として活躍したのがダフト・パンクだ。そして、ジョルジオ・モロダーやナイル・ロジャースを担ぎ出した彼らの2013年作『Random Access Memories』の大ヒットは、小バコの営業バンドに甘んじていたナイル率いるシックを再びスタジアムを熱狂させるスターに戻し、ジョルジオが30年ぶりの新作を出すキッカケを作った。また、現行ブギーのオリジネイターのひとりとしてデイム・ファンクやタキシードなどから熱烈な賛辞を受けるランディ・ミュラーもブルックリン・ソウル・ビスケッツを立ち上げて帰還。デクスター・ワンゼルの「I’ll Never Forget(My Favorite Disco)」(1979年)を聴きながらディスコを前向きに回顧する時代がやってきたのだ。

Words by Tsuyoshi Hayashi

Tags: Disco
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