Loleatta Holloway インタビュー/ロレッタ・ハロウェイ、ディスコの女王

March 08,2016 | Category :  Interview | Tag :  Loleatta Holloway,

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QUEEN OF THE NIGHT: ダンスフロアの女王

Loleatta Holloway ロレッタ・ハロウェイ/ソウル・シスターからディスコ・クイーンへ

Salsoul Recordsのディスコ・ディーヴァ、ロレッタ・ハロウェイは2011年3月21日、享年64で惜しくもこの世を去ってしまったが、彼女は音楽史に残る素晴らしい歌声の持ち主であった。ゴスペル/ソウルの歌い手として活動を開始したあと、「Hit and Run」、「Love Sensation」、ダン・ハートマンの「Relight My Fire」といった世界的なヒットを記録したディスコ・ソングでその力強い歌声を披露し、一躍スターに。ディスコ人気が去った後も、ブラック・ボックスの「Ride On Time」などハウスを中心に様々な楽曲で幾度となくサンプリングされ、長年に渡り彼女の声は愛され続けて来た。1999年ごろに彼女と行ったインタビューを織り交ぜながら、この偉大なるシンガーの功績を振り返っていこう。

1946年11月5日にシカゴに生まれたロレッタ・ハロウェイ(註:英語発音はロリータ)は、幼ないときから声量のある子であり、4歳のときにすでに母親のゴスペル・グループの一員として教会で歌っていた。彼女の母がやっていた聖歌隊、ハロウェイ・コミュニティー・シンガーズは、100人余りのメンバーが在籍する巨大な巡業ゴスペル・クワイアであった。

――なぜ歌を歌い始めたのですか?

うちの母親、そしてクワイアがあったからね。子供のころ、歌わせられていたのよ。

――いつから歌い始めたのですか?

4歳ぐらいの頃かしら。子供たちにはみな、自分の担当の曲パートが振り分けられたの。しかし母が私に指定した部分は好きじゃなくて、姪がもらっていた所が好きだった。私と姪は同い歳で、私が数ヶ月上だった。でも母は「いいえ! あなたはこれを歌いなさい。その部分は彼女のほうが上手いわ」と言っていた。私はそこが歌いたいあまりに、自分の所を頑固に歌わないでいたの。

何があっても私は自分の担当を歌わなかった。とある日曜日、教会でレコードを作ることになったの。あのときのテープかレコードが今あればよかったんだけど。録音の本番の日、姪は具合が悪くなってきていなかった。クワイアが立ち上がって歌い始めて、姪が担当するパートがきた。私はそのとき座っていたんだけど、とつぜん頭のてっぺんからつま先まで電流が走ったような感覚になって、立ち上がってそのパートを歌い出したの。そして教会の中を歩き回って歌い続けた。来ていた人はすごく感激していたわ。それ以来、クワイアの中で一番注目を浴びるシンガーになった。

――家族には他に音楽をやる人はいましたか?

家族全員歌っていたけど、仕事としてはやっていないわ。

10代後半になると、ロレッタは母親のクワイアを去り、キャラヴァンズという女性ゴスペル・グループに加入した。アルバティーナ・ウォーカーがリーダーを務める同グループの活動を通じて、ロレッタはプロの歌手として仕事をするようになる。しばらくキャラヴァンズと活動をしたあと、彼女はロレッタ・ハロウェイ&ハー・レビューという名前の巡業グループを結成し活動をした。この頃、彼女はフロイド・スミスと知り合う。彼は、彼女のマネージャー/プロデューサーとなり、のちに夫となる男性であった。24歳であった彼女は、フロイドのプロデュースで1971年にロレッタ・ハロウェイとして初のレコードをリリースした。

私が最初にレコーディングした曲は、彼が持って来た「Rainbow ’71」という曲だったわ(カーティス・メイフィールドが作曲し、ジーン・チャンドラーが1963年にリリースした曲のカバー)。これを彼はApache Recordsから出したの。

同曲はのちにGalaxy Recordsから全国的にリリースされた。

――それ以前にレコーディングはしていなかったのですか?

さっきも言ったとおり、4歳ぐらいのときに教会でレコードを録音したわよ。子供のころ、そのレコードを聴くのが大嫌いだったのを覚えてる。なぜかというと、私はまだ子供だったのに声が大人の女の声に聞こえたから。誰かがそのレコードをかけると、私は毎回割っていたのよ。でも今は、1枚でも家にあったら良かったのにって思うわ。聴いてみたい。とにかく、当時私は自分の声を聴くのが大嫌いだったのよ(笑)。

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――当時からすでにその力強い声が完成していたんですね?

まぁ、大きな声だったわ。少なくとも(笑)。

――ハロウェイ・コミュニティー・シンガーズと、キャラヴァンズ以外で、グループに所属していたことはありますか?

ジェシー・ディクソンと一時期歌っていたことがある。でもそれ以外ではないわね。

ロレッタの初のシングルが1971年に店頭に並んだあと、フロイドは『Don’t Bother Me, I Can’t Cope』というミュージカルにロレッタを出させた。

フロイドはGRCレーベルのオーナー、マイケル・セヴィスという人をミュージカルに招いていた。私のミュージカルのパフォーマンスを見ると、彼は私を契約したいと言ってくれた。彼は、「もし君のレコードが100万枚売れなかったら、俺が直接100万枚買ってやる」と言っていたわ(笑)。ジョージア州アトランタにあったマイケルのレーベル、Awareと契約した。その会社からは2つアルバムを出した。もしかしたらお蔵入りのアルバムがもう1枚あったかもしれない。でもそんなに長い間そこにはいなかったわ。

“ホットランタ・サウンド”と呼ばれたAwareからは、フロイド・スミスがプロデュースした『Loleatta』 (1973年)と『Cry to me』(1975年)の2枚がリリースされた。しかしAwareはすぐに倒産し、ロレッタは1976年にニューヨーク拠点のSalsoul RecordsのサブレーベルであったGold Mind Recordsと契約した。Gold Mindを仕切っていたのは、MFSB、ダブル・エクスポージャー、ラブ・コミッティー、ファースト・チョイスなどフィラデルフィア作品のグルーヴを支えていたリズム・セクション、ベイカー・ハリス・ヤングのメンバーである、ギタリスト/プロデューサー、ノーマン・ハリスであった。

ロレッタ・ハロウェイ、ヒット連発の前夜

――Gold Mindと契約をしたときからが、あなたのキャリアの本当のスタートと言えますよね。

そうね! ニューヨークに行ってSalsoulを始めたカイル兄弟と会って。そこから全てが始まったわ…。

――Gold Mindで契約したのは、レーベルオーナーのノーマン・ハリスでしたか?

いいえ、契約をしてくれたのはSalsoulのケン・カイルだった。Gold Mindっていう名前のレーベルだったけど、結局Salsoulの一部だったの。彼らのために最初にレコーディングしたのは、1976年に出た「Hit and Run」だったわ。

1976年4月26日、契約書にサインをしたロレッタはすぐにSigma Sound Studiosにて「Hit and Run」をレコーディングした。ノーマン・ハリスがプロデュースをした、11分近くに及ぶこの至福のディスコ・トラックは、ロレッタがヴォーカルを乗せた最初のディスコ曲であったが、そのテンポの速さや曲の長さに慣れるまで大変だったようだ。

あんなに速い曲でどうやって歌えばいいか解らなかったわ。それも、あんなに長いこと! もう、終わりがない曲だと思ったわ! やっと終わったと思ったら、今度は「じゃあアルバム・バージョンを作ろう」だって。冗談かと思った。レコーディングには何日もかかったわ。彼らは曲のメインを書いていたけど、ヴァンプ(繰り返されるリズム・パターン)の部分はしっかりと決めてなかった。ただただ曲がずっと続いてしまって、「この後どうする?」ってなって。すると、「とりあえず彼女に任せよう」という話になった。その後、レコーディングをするときヴァンプだけ弾いてもらって、あとはそこから私主導で作って行った。いつも、ヴァンプから曲が出来ていったわ

「Hit and Run」が完成した数日後、彼女はSigma Sound Studiosで「Dreamin’」を制作した。のちにSalsoulクラシック化するこの曲は、Gold Mind/Salsoulからリリースされた彼女の1stシングル「Worn Out Broken Heart」のB面に収録された。Gold Mind用に最初に録音されたのは「Hit and Run」であったが、最初にシングル・リリースされたのはバラード「Worn Out Broken Heart」だったのである。これらの3曲は、Gold Mindから登場したアルバム『Loleatta』に収録されている(Awareからリリースされた1973年の同名アルバムとは別)。なお、このアルバムは1976年の12月にリリースされたが、よく『Loleatta ’77』と呼ばれる。2000年には、UKのDefected Recordsからアメリカのリミックス・チーム、ジャズNグルーヴが手がけた「Dreamin’」のリミックスがリリースされた。24トラックのマスター音源を使用し、原曲のパートのみを使用して作った同リミックスは、原曲の良さをキープしながら新世代のダンスフロア向けにアップデートした、21世紀のディスコ・サウンドであった。

Salsoulからコンスタントにアルバムをリリース

その後も数年に渡り、ロレッタはSalsoulから1年に1枚のペースでアルバムを出した。1978年には『Queen Of The Night』を発表し(「Catch Me On the Rebound」、「I May Not Be There When You Want Me (But I’m Right On Time)」といったシングルがヒット)、1979年には、自身の名前を冠した作品として3枚目となる『Loleatta Holloway』をリリースしている。そして1979年、彼女のパワフルな声を気に入ったダン・ハートマンが自作曲で彼女にヴォーカルを依頼する。「Relight My Fire」と題されてリリースされた同曲は、世界的な大ヒットとなり、定番のガラージ・クラシックとして今日も数多くのDJやディスコ・フリークに愛されている。

そして同じくダン・ハートマンがロレッタのためにプロデュース/作曲した「Love Sensation」こそが、ロレッタにとっての最大のヒットとなる。1980年にUSダンスチャートの1位を獲得し、同名のアルバムに収録されたこの曲は彼女の代表曲となり、その後ブラック・ボックスの「Ride On Time」(1989年)やマーキー・マーク&ザ・ファンキー・バンチの「Good Vibrations」(1991年)を始め、数々の曲でサンプリングされていった。

『Love Sensation』が彼女がSalsoulから出した最後のアルバムとなったが、ロレッタがSalsoulを代表するディーヴァとなったのは「Love Sensation」が出るよりも前、サルソウル・オーケストラの大ヒット「Run Away」(1977年)にヴォーカリストとして参加したときであった。同曲はその20年後にケニー・ドープとルイ・ヴェガのプロジェクト、ニューヨリカン・ソウルによってカバーされたことでも知られるが、そのバージョンも、サルソウル・オーケストラのブレインであったヴィンス・モンタナ・ジュニアがアレンジメントを手がけている。また、才能溢れるディスコ・プロデューサー、パトリック・アダムスが手がけたサルソウル・オーケストラの「Seconds」(1982年)でも、ロレッタのトレードマークのパワフルな歌唱が聴ける。なお、1978年には同じGold Mind所属の男性シンガー・ソングライター、バニー・シグラーとのゆったりとしたデュエット曲「Only You」も登場し、ヒットした。

Salsoulが倒産すると、ロレッタはアーサー・ベイカーが主宰し、ニュー・エディション、アフリカ・バンバータ、コロネル・アブラムスといったアクトが所属していたレーベルStreetwiseに移籍した。Streetwiseからは「Crash Goes Love」(1984年)というシングルをリリースしたが、その後Streetwiseも突然消滅し、レコード契約がなくなってしまった。そしてその時期、彼女の夫フロイド・スミスが亡くなってしまった。

以降も彼女は様々なレーベルから多数の楽曲をリリースしてきた。1992年に小さなActiveというレーベルから出た12インチ・シングル「Strong Enough」は、知名度は比較的低いが忘れてはならない名曲であり、DJレジェンド、ラリー・レヴァンが亡くなってしまう直前にリミックスを手がけているのも特筆すべき点だ。

1994年には、長年の付き合いのダン・ハートマンと再度タッグを組み、「Keep The Fire Burning」という楽曲を制作。フランキー・ナックルズによるミックスを収録したシングルがリリースされ、ビデオの制作も予定されていたが、撮影が実現する前にダンはこの世を去ってしまった。1998年には、UKのダンス・アクト、ファイヤー・アイランドとのコラボ「Shout to the Top」がリリースされ、1999年には『Virgin Voices』というマドンナのトリビュート・アルバムに参加し、マドンナの「Like a Prayer」を歌い上げている。

「最初にサンプリングが登場したときは、良いと思ったわ。でも理解できなかったのは、私に1セントも払おうとしなかったこと」 ーロレッタ・ハロウェイ

多くサンプリングされた「Love Sensation」について思うこと

――おそらく、ブラック・ボックスやマーキー・マークといったアーティストの歌から「Love Sensation」のことを知った人も多かったと思います。サンプリングについてはどういう印象を受けましたか?

最初にサンプリングが登場したときは、良いと思ったわ。でも理解できなかったのは、私に1セントも払おうとしなかったこと。私の声を使って、ビッグヒットを出してるのに、私にお金を払おうとしないなんて、意味が分からないと思った。最初に私の声がサンプリングされているのを聴いたのは、マドンナの曲だったわ。なんて言う曲か忘れたけど…ちょっとしたサンプリングだったけどね。“ラ〜”みたいな。でも、私の声だったわ。

色んな人にサンプリングされたわ。映画でだって私の声が使用されてる。オモチャにも使われてるのよ。でも誰もちゃんとお金を払おうとなんてしなかったわ。

――それは非常に残念ですね。少し前にコロネル・アブラムスにインタビューをしたのですが、彼もサンプリングのロイヤリティを受け取っていないと言っていました。

歌手にはお金を払う必要がないと思ってたんだわ。歌手にとっての収入なんて、レコーディングのときに前金としてもらうギャラと、ライブでもらえるギャラくらいよ。すると、今度はサンプリングしたアーティストたちのほうがギグのオファーをもらうようになって。生活に支障をきたしたわ。例えばブラック・ボックスがブッキングされた次の週に私がブッキングされて、行ってみると「“Ride On Time”の本当のシンガー」みたいに紹介されていて、私に「“Ride On Time”を歌って」なんて言ってくるのよ。私は、「そんなの歌わないわ。“Love Sensation”を歌わせてもらいます」って言い返した(笑)。クラブでは私の曲よりブラック・ボックスがかかるの。「あなたが求めているのは私じゃなくて、ブラック・ボックスでしょう!」って言ってやったわ。

――そうなんですね…。しかしサンプリングされて少しは嬉しいという気持ちはなかったですか?

そうね! 素敵なことよ。ただ…ちゃんとお金を払ってくれたらもっと良かったわ(笑)。

――マーキー・マークの曲ではクレジットされましたよね?

ええ、彼らが唯一クレジットしてお金を払ってくれた(ロレッタ・ハロウェイはブラック・ボックスに対して起訴をし勝利している)。

――あと、聞いた話では、彼らはブラック・ボックスのアルバムのヴォーカルを当初あなたに依頼する予定だったものの、結局マーサ・ウォッシュが選ばれたらしいですね?

ええ…マーサ…私はギャラの交渉をしていたの。しかし結局彼女は私よりも随分低い額で引き受けたみたい。当時、私はヒット曲があったという自信があったから、「アルバムをやるならちゃんとアルバム分いただくわよ」と言った。向こうは「すぐに制作しないといけないんだ」って言って、値段の交渉をしてきた。その頃マーサとは良く電話で話をしていたんだけど、私の知らないところで彼女は私よりもずっと安い額でOKをしていた。傷ついたわ。電話で彼女に何でも素直に打ち明けていたのに、それを彼女に利用されたのよ。

――悲しいですね。Salsoulの話に戻りますが、当時、レーベル内はどういった雰囲気でしたか? 家族のような絆がありましたか?

そうね。最初は特に素敵だったわ。オーナーのひとり、ケニー・カイルは友達のような存在だった。彼はビジネスよりも友情を優先するような人だった。カイル兄弟の他のふたり(ジョセフ、スタンリー)はどっちかっていうと、もっとビジネスライクな人だった。ケニーはお兄さんみたいだったわ。思いやりがあった。今でも、ケニーは私のことを気にかけてくれているわ。

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筆者がケン・カイルに話をきいた際、彼はロレッタのことをこう語っていた。「彼女は、綺麗な歌声を持った素晴らしい人だ。そしてそのパワフルな声をどう使ってオーディエンスに伝えるかを熟知している。ロレッタとは今も仲がいいんだ。あるとき、クラブで彼女がライブをやることになっていたんだが、プロモーターの宣伝の仕方が悪く、クラブに着くと2000人のキャパのところに50人ぐらいしかいなかった。私は驚いて、ロレッタがライブをやらないと言い出すんじゃないかと心配したが、彼女はまるでそこに何千人もいるかのようなパフォーマンスをやってみせた。来ていた数人は、相当喜んでいたよ。彼女は歌にとてつもない情熱を注いでおり、ライブはいつだって全力だった」

――トム・モールトンと仲が良かったですか? 彼は「Love Sensation」をミックスしています。

ああ、トム! 彼も素敵な人だった。トムがミックスしたのね、知らなかったわ! 今彼は何してるのかしら?

――まだ活動していますよ。土曜日に彼に話を伺いに行く予定です。

そうなのね。私に電話をするよう伝えておいて。彼は「I Will Survive」っていう曲もやってたわよね。

――グロリア・ゲイナーの曲ですね。あと、ダン・ハートマンのこともお訊きしたいです。彼の自宅でレコーディングをしたらしいですね?

彼の自宅で「Love Sensation」をレコーディングしたのよ。窓が開いていて、コオロギの鳴き声が聞こえる部屋だった。彼の屋敷には2日間泊まらせてもらって、彼のお手伝いさんにたらふく食べさせてもらった。彼は「さぁ、靴を脱いでくつろいでくれ」って言うから、ゆっくりしたわ。すると「彼はスタジオに行こう」と案内してくれた。自宅の中にあるスタジオは、そのとき初めて見たわ。窓だらけの部屋で、窓のそばにマイクスタンドが置いてあって、私は「ここで歌うの?」ってちょっと驚いた。1回目のテイクは上手くいったと思ったんだけど、彼は「ちょっとクリアすぎるね。もっとこもった感じで歌ってくれないかな?」って言って、私は「ええ?」って思った。結局30回もリテイクさせられたわ。30回よ! あの曲が多分、人生で一番レコーディングが大変だった曲じゃなかったかしら。レコーディングが終わった頃には声が出なかったし、すごく疲れた。でも彼は良い人だった。彼はいつまでも私の誕生日を忘れないで、毎年プレゼントを送ってくれたわ。

――ところで、これまで音楽以外の仕事をしたことはありますか?

ええ! 随分昔だけどね。10代のころは製本所で働いたりしていた。でもずっと長い間ひとつの職場にいることはなかったわ。

――音楽がずっとメインだったんですね?

うん、そうかな。後悔するときもあったわ。年功で昇任して、ろくに仕事をしないで他の人に指示するだけの役職の同年代の友達をみると羨ましいと思うわ。この業界では山あり谷ありだから、ずっと働いていないといけないからね。年功序列なんてないから。

――自分の楽曲を作曲したり、プロデュースしたことはありますか?

あるわ。これは、初めて言うことなんだけど、私のヒットした曲の多くは、一番良い部分をたいてい私が作ってるのよ。ヴァンプだけ演奏して、あとは私に任せるっていうことが多かったから。例えば「Love Sensation」。ヴァンプの部分は私のアイディアだったのよ。最終的に採用されたのは、たいてい私が考えたパートだった。私は感じる通りに歌って、それが曲の進む方向を決めるから、曲の終わり方はたいてい私の歌い方によるのよ。

曲を作るという作業は中々ひとりではできない。ひとりが音楽を担当して、もうひとりが歌詞を書くとかね。でもひとりがプロデューサーとしてクレジットされてしまうのよね。プロデューサーによっては作曲できない人もいる。でも求めているものが明確にあって、それをどうすれば形にできるかを知っている人とか。共同作業で曲を作って行くから、ときには意見の食い違いもあるわ。自分で作り始めた曲でも、他の人に仕上げてもらうこともあるしね。

手元を離れていく、ロレッタ・ハロウェイの曲たち…

――私はレコード・コレクターなのでお訊きしたいのですが、あなたは自身が関わったレコードを全て持っていますか?

いいえ、1枚も持っていないわ! これを言うと信じてもらえないけどね。Salsoulにレコードを送ってもらおうとしたわよ。でも1枚とかそのぐらいしか送ってもらえなくて、一度火事があって全部燃えちゃったの。だから今誰かに「あなたのレコードを聴かせて」って言われても、持ってないって答えるしかないわ。

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――それは残念ですね。

でも前、ヨーロッパに行ったとき、私の曲の、私が知らなかったミックスのレコードが沢山あることを知ってビックリしたわ。しかも私が知らない間に撮られた写真なんかを勝手にジャケットにしていた。それを見た時、泣いたわ。ライブのときの写真とかを使って、曲のミックスを勝手に作って、それをレコードにして売っていたのよ。他人が私の音楽で勝手にお金を儲けて、私はお金に困っていた。しかも私だったら絶対OKしてなかったような写真を使って。本当、お金ぐらい払ったって良いじゃない!って思ったわ。旦那がビジネス面は管理していたから、彼が亡くなってからは、私は本当にどうしていいか解らなかった。しばらく亡骸のようだったわ。

――それは本当にやるせなくなりますね。あなたが関わった作品で、最も誇りに思っているのは?

それは答えるのが難しいわね。色々なミックスのバージョンもあるし。でも作ったときは私たちは凄く時間と労力をかけたのよ。ひとつのアルバムを選ぶことはできないわ。皆、全力で頑張ったから。

――確かにそうですね。あなたはこれまでだいたい何作品、あるいは何曲に関わったか把握していますか?

検討もつかないわ。ロンドンにいたとき、とある男性が20枚ぐらいのレコードを差し出して、サインを求めてきた。私は「何これ?」って言ったわ。どれも、私の曲だった! 1枚、1枚サインをしていくごとに、涙が出たわ。すごくショックだった。私の曲を勝手に解体して、作り直して、違うミックスにして売ってたのよ。ラリー・レヴァンも同じことをしていたって知ってショックを受けたわ。

ラリー・レヴァンとの衝突と友情

ラリーとは、一度仲が悪かったときがあったの。これは今まで誰にも言ってないことなんだけど、昔、Paradise Garageでふたつライブをやることになっていて、私はDJとやり取りはしていなくて、いつもオーナーと直接やり取りをしていたんだけど、ケン・カイルのアパートにいたとき、クラブの人から電話で「ラリーがこの曲とこの曲を歌って欲しいそうです」って言われたの。私は「ラリーって誰?」って答えたわ。私はたいていクラブでライブをするとき、DJにあいさつをしないで、楽屋から直接ステージに出て、その後はリムジンでホテルに戻っていたから、DJのことは全然知らなかった。電話の人は「DJのラリーです。この曲とこの曲を歌ってください」って言うの。私は「何を歌うかを決めるなんて、何様のつもり? それは歌わないわ」って言い返してやった。一晩中、電話が鳴りっぱなしだったわね。私はテレビを見ながら寝ちゃって、ライブをすっぽかしてしまった。次の日、また電話があって「ロレッタ、お願いします! 昨晩の分も払いますから、明日は来てください。何を歌ってもいいです! もう指定はしないので」って言われた。客は私目当てで来てるのよ。もちろんラリーは皆に愛されていたけど、私がライブをやるときは、私目当てで来る人もいるわ。私がライブに行かなかったことで、ラリーは「彼女に電話して、何を歌ってもいいと伝えてくれ」って慌てたみたい。その前の晩と、次の晩の分のギャラを払ってくれたわ。

――でも彼とはその後、一緒に仕事してますよね。

ええ、その後は仲良くなったの。ラリーはその一件があってから私のことをもっとリスペクトするようになった。ラリーは、なんていうか、気をつけてないと何でも彼の思い通りにしようとしてしまう人だった。私は彼のDJに口出ししないから、彼に私のライブに口出す権利はない、とそう主張したの。それからは、お互いリスペクトしあっていたわ。でも、それからしばらく経って、なぜ彼が歌を指定しようとしたか知ったのよ。彼はテープを作っては、ヨーロッパの人に売っていたの。私が歌っているのを録音したかったから、特定の歌を指定してきたってわけ。でもそれは彼が亡くなってから知ったことだった。彼はラッキーだったわ。もし彼がまだ生きてたら、容赦しなかったわ(笑)。

――「Strong Enough」という曲では、彼がミックスを行っています。

ああ、そうね! あの曲はイヴォンヌと私で作ったのよ。(プロデューサー/アレンジャーの)イヴォンヌ・ターナー。彼女はニューヨークにいて、私はシカゴで、電話で数時間話合いながら、一緒に作詞したわ。

――あの曲は92年にリリースされた曲の中でもベストを争う1曲だと個人的に思っています。しかし残念ながらあまり広く知られていません。

ええ、良い曲だった。すごく感情を込めた曲だったわ。イヴォンヌの発想から生まれた曲。私は「いつも人は私の音楽をサンプリングするから、今度は自分で自分の曲をサンプリングしちゃおうかしら」って言った。彼女は「いいえ、でも過去の曲の“Strong Enough”に関係する部分を使うのはいいわね」と言った。その同じアイデアをダン・ハートマンとの曲「Keep the Fire Burning」で提案したの。あの曲はビデオをやるつもりだったんだけど、その前にダンが亡くなってしまって話がなくなったわ。

――これまであなたが歌ってきた曲のなかで、お気に入りの曲はどれですか?

サム・ディーズ作曲の「Worn Out Broken Heart」が大好き。「Cry to Me」という曲に似てるわ。その曲もサム・ディーズ作曲なの。あと、ボビー・ウーマックが作曲した「My Way」という曲。それと、フロイド・スミスがプロデュースした「What Now」。フロイドは、私がバラード歌手だと知っていたからバラード曲ばかりプロデュースしていたわね。でも私はディスコ人気の影響で速い音楽で歌ってた。だからこそ、アルバムにはバラード曲を入れるべきだとフロイドはレーベルに強く主張してくれた。彼がそうしてくれなかったら、ノーマン・ハリスたちは私にディスコ・ナンバーばかりやらせていただろうね。

――当時はディスコが売れていましたからね。

そうね! でもフロイドは「いや、毎日毎晩そんなに速い曲ばかりやっていたら彼女が疲れ果ててしまうだろう」って言ってた。ライブでは毎回、少し落ち着く時間を作ってバラードを歌うことができるように、彼はバラードをアルバムに入れるようにしていたわ。

ロレッタ・ハロウェイが抱くディスコへの想い

――他の人の歌で、自分の曲だったら良かったと思う曲はありますか?

ジョセリン・ブラウンの「I’m Caught Up (In a One Night Love Affair)」ね。あの曲は凄く好きなの。あと、あの曲なんだっけ? 「Love Under New Management」(ミキ・ハワードの1989年の曲)とか。なんて良い曲なんだろうって思える曲はいっぱいあったわ。

――「I’m Caught Up」以外で、ディスコやファンクのお気に入りはありましたか?

「I’m Caught Up」以外では…「Love Sensation」かしら。あまり思い浮かばないわ…ディスコだったらたいてい女性シンガーの曲が好きだった。リンダ・クリフォードとか良い曲があったわ。

――普段はどういう音楽を聴いていますか?

ルーサー・ヴァンドロスとか、アニタ・ベイカー。あとシャーデー。あとは…ドレッドヘアのあの娘、なんだっけ…?

――ローリン・ヒルですか?

ああ、そう。彼女は好きだけど、最近はちょっとスタイルが違ってきたかもしれない。最近は歌じゃないことをやっていて…歌を歌っているときのほうが好きだわ。上手いのに!

「ディスコはどこにも行っていない。ダンス・ミュージックとか、ハウスといった呼び方に変わっただけ。どんな名前になっても、私にとっては全てディスコだわ」 ーロレッタ・ハロウェイ

――ディスコ・ミュージックに対してはどういう印象ですか? 当時、ディスコは好きでしたか? それともただの仕事でしたか?

最初に始まった頃は、よく解らなくて、そのうちそういった音楽を仕事でやるようになって、そのうち生活の一部になって。最高だったわ! 今ではもう、ディスコっていう言葉を使いたがらないみたいで、ダンス・ミュージックとかハウスとか呼んでるけど。あの時代は素晴らしかったわ。あの頃は皆もっと自由で、ただ楽しむということしか考えてなかった。それに、ディスコはどこにも行っていない。ダンス・ミュージックとか、ハウスといった呼び方に変わっただけ。どんな名前になっても、私にとっては全てディスコだわ。

――同感です。

新しかったのはラップかな。それ以外では、ハウスとかそんな音楽は全てディスコだわ! ハウスっていうものが最初に登場したときも、DJは私の曲ばかりかけてたんだから、私のことをハウス・クイーンって呼んでもいいと思うわ。そのうちダンス・ミュージックって呼ばれるようになったけど、私の曲ばかり。サンプリングだけどね。なんで名前がどんどん変わって行ったのか、解らないわ。

――ディスコ時代に人気になった他のアーティストと今でも連絡をとっていたりしますか?

リンダ・クリフォード。彼女とはまだ一緒にライブをやることがあるわ。お互いクラシックを持ってるからね。私たちは、ワインと一緒よ。歳を重ねるごとに熟成されていくわ…。

――ディスコ時代以降も、ずっとアクティブに歌手として活動しているのですか?

ええ…ディスコのことをもうディスコと呼ばなくなってからも、私は活動を続けたわ。クラブはまだあったからね。大抵のディスコ・ガールたちはクラブでパフォーマンスをした。ラジオではもうディスコがかからなくなってたかもしれないけど、クラブではそういうアーティストがブッキングされていた。ラジオとは別に、クラブにはクラブの文化があった。フロリダとか、カリフォルニアとか、色々なクラブに行ってライブをやっていたわ。

Paradise Garage、The Galleryでのライブの想い出

――ディスコ・クラブについて教えてください。あなたが最初にディスコでライブをやったのは、ニッキー・シアーノのThe Galleryだったと聞きます。

そう! 凄く楽しかった。あのクラブに最初入ったとき、確か私は末っ子がお腹の中にいたのよ。多分お店の人達は私が妊娠してたって知らなかったと思うけど。お店はパンパンだったわ。クラブに入ったとき、音楽のせいか、お客さんたちの動き方がたまたまそうだったのか、気づいたらステージまできていた。まだ楽屋で衣装に着替える前よ。そのときチャカ・カーンの歌がかかってて、客は私が誰だか解っていないみたいだったけど、私にステージに立つよう促すの。誰かにマイクを渡されて、なぜかチャカ・カーンの曲を私が歌い出したわ。最高だった!

――さっきParadise Garageでライブしたことに触れていましたね。

ええ、あそこは私のホームだった!

――Studio 54などのクラブでもライブは行っていましたか?

ライブはしたけど、Paradise Garageが一番居心地が良かったわね。私はラリー・レヴァンがレジデントになる前からParadise Garageでライブをやっていたのよ。まだステージすらなかった頃。テーブルの上に立って歌っていたわ。それからクラブがどんどん人気になって、拡大していった。あそこでは年に5、6回ぐらいライブしたかしら。Paradise Garageに匹敵する場所はこの世にないわ!

LH

――あの時代に出会った印象深い人や、印象深い想い出はありますか?

アレサ(・フランクリン)は、本当に素敵な人だった。まだキャラヴァンズと一緒に活動していたときに知り合ったの。彼女のラスベガスのショウで前座を務めたわ。素敵な体験だった。彼女は当時大スターだった。アレサと仕事をすることができたのは、大切な想い出だわ。あとは…そうね。仕事としてやるようになってからは、ちょっと楽しさが薄れちゃったのよね。家賃を払うための仕事として考えるようになったから。その前は、ただ好きで歌ってたから、お金をもらえなくても気にしてなかった。だからこそ、お金を払わなくてもいいって思われてしまったのかもしれない。歌うことが大好きだったからやっていたんだけど、生活がかかってくると楽しさは減ってしまったわね。それに、3人の息子とひとりの娘を養っていたからね…。

――子供を育てることがすでに仕事ですよね。

本当にそう。その上音楽活動をやっていた。夏になると、子供達をツアーに連れていくときもあったわ。一番下の息子は私と一緒にライブをやるときもあった。

――なんと!

ええ。そのうち息子だけブッキングしたがる人もいたわ。でもフロイドがそれを嫌がった。息子は私と一緒にステージに立って、ダン・ハートマンの歌を歌ったりしたんだけど、旦那はあまり彼に業界に入って欲しくなかったみたい。

80年代後半から90年代にかけて、ロレッタはアメリカ、日本、ヨーロッパを中心にツアー公演を続けた。1996年には、冠動脈バイパス手術を受けるためしばらく活動を休止した。

私はただの風邪だと思って、医者に行って抗生物質をもらって、またツアーに行くつもりだった。でも医者に行ったら、いつもみたいに処方箋を出してくれるかと思ったら、一晩泊まってほしいと言われた。何やら検査をしたいのだと。次の日の朝、検査をしたら、今度は別のクリニックに連れていかれて手術をするべきだと言われた。あまりにも急なことで驚いたわ。その日、救急車で病院に行って、先生にバイパス手術を勧められた。子供たちにもやるべきだと言われたからOKしたけど、あれって胸とか、脚からお腹までを切るのね。ビックリしたわ。今でも、自分があれをやったことが信じられない。具体的にどういう手術なのか知らなかったのが良かったと思う。もし月曜まで待っていたら情報を調べてしまって、ぜったいやらないって言ってた。先生に「すぐにやりましょう」って言われたからやって良かったわ

翌年にはロレッタ・ハロウェイは復帰し、ツアーを再開していた。同年、8月26日にはダンスミュージックの20年を祝うBeatstock Festivalがブルックリンで開催され、50組以上のアクトが出演。ロレッタはターナ・ガードナー、キャロル・ダグラス、アニタ・ワード、ヴィッキー・スー・ロビンソン、フランス・ジョリといったディスコ時代を牽引した多数のシンガーたちと共演を果たした。2000年代以降も、ロレッタ・ハロウェイの名曲をアップデートしたバージョンなどがリリースされ続けており、彼女の音楽、そして声は今も世界中のダンスフロアを沸かし続けている。

インタビューの最後には、ロレッタは当時まだリリース前だった日本のグループGTSとの新曲(1999年にリリース)について語ってくれた。

これからリリースされる曲があるのよ。数ヶ月前に来た日本の人達と作った曲で、「Share My Joy」って言うの。すごく良い曲だと思うわ

――それは良いニュースですね。楽しみにしています。

いくつか違うミックスがあるんだけど、素敵なのよ。先週彼らがひとつミックスを送ってくれて、イヴォンヌと私は毎日そればっかり聴いているのよ。彼女も最高だと言っているわ。私も凄く好きなの。

Words by Claes “Discoguy” Widlund of www.disco-disco.com

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